6月12日:コロナ・ジェノサイド~コイケ

6月12日(金):コロナ・ジェノサイド(47)~コイケ

 

(withコロナ?)

 もうコロナネタで書くのは面倒だから止めようと思っていたんだけれど、日々、いろんな情報が入ってくる。それも僕から見て不思議な情報が入ってくるもんだから、ついつい書いて残しておこうって気になってしまう。

 最近は、アベよりもコイケ周辺が賑やかだ。別にコイケ都知事に恨みがあるわけでもないし、むしろ何の感情もないんだけれど、なにかと言われているのでどうしても耳に入っちゃうんだな。

 コイケ都知事と言えば、あおれやこれや造語で目立っている。アラートだの、ロックダウンだの、ステイホームだの、やたらと横文字言葉が使われる。さすがカイロ大学卒だけあって、言語には堪能でいらっしゃる。

 近頃、「withコロナ」なる標語も使われている。「withコロナ」って、何やそれと思ってしまう。まるでコロナを常に身にまとって生活しなければならないみたいだ。「alongコロナ」辺りでいいのではないかと思ってしまう。

 

(自粛から自衛へ)

 そのコイケがこの度さらにおかしなことを言いだした。東京アラート解除に伴って「自粛から自衛へ」という標語を掲げだしたのだ。これって、おかしいと思わないだろうか。僕たちが自粛したのは、そもそも自衛のためである。そうではなかっただろうか。まあ、他の人はどうか分からないんだけれど、僕には自衛のために自粛するという意識があった。

 いや、これはきっと僕だけではないはず。都民が自粛要請に従ったのは自衛のためである。緊急事態宣言下で出勤しなければならない人たちが「できれば家に居たい」とインタビューで答えていたけれど、あれは自分を危険に晒しているという気持ちがあるからだろう。そうであるとすれば、自衛のために本当は家に居たいのだという意味になる。自粛はすべて自衛のためである。

 どうも都知事からすると自粛は他の目的のためだと思い込んでいるような気もする。とんでもない思い違いをしているのではないかと僕は思ってしまう。都民の自粛を純粋に都への協力と信じているのだろうか。もし、そう信じているとすれば、けっこうな「ジコチュー」である。

 まあ、それはさておき、「自粛から自衛へ」という標語はヘンテコな意味に僕には聞こえる。この標語を訂正するとすれば、「自粛による自衛から〇〇による自衛へ」というふうに変えなければならない。この〇〇の部分に何が入るのか僕は知らない。言っているコイケご本人も考えていないのかもしれない。

 

(信念なきは罪にあらず)

 しばしば、このコイケさんは自分の信念を持たないといった批判がされてきたように思う。議員時代から右についたり左についたりといったことをやってきたというようなことも言われている。僕は政治に疎いのでよく分かってないんだけれど、そういう批判は何度か読んだ覚えがある。

 時と場合によって右についたり左についたりすることは、それ自体は何も悪いことではないと僕は考えている。信念を持つことは、持たないことよりも望ましいのかもしれないけれど、信念を持たないあるいは持てないからと言ってその人が非難されてもいけない。信念を持たないことは何ら罪ではないのだ。

 信念を持っていても、状況によってはその信念に反する言動をしなければならない場合もある。それをした人がいても、僕たちはその人を責めることはできない。

 ガリレオは地球が太陽の周りをまわっていると主張した。当時の常識ではそれは間違っている見解だった。神がこの世を作ったのだから地球が中心であるはずだと信じられていたわけで、それに反する見解を主張したガリレオは反逆罪に問われることになる。激しい拷問を受けて、ガリレオは降参するのだ。「私が間違ってました。確かに地球を中心にして天体が動いてます」と、そのようなことを言わなければならなかったのだ。僕たちはガリレオを責めることができるだろうか。

 隠れキリシタンが処刑を免れるためにイエスの磔刑像を踏んだとして、その人を批判できるだろうか。

 ナチスの収容所の囚人で、ナチスに協力してしまった人たちを僕たちは批判できるだろうか。

 執拗な尋問と長時間の拘束によって精神的に苦しめられている被疑者が犯してもいない罪を自白してしまったとして、僕たちにその被疑者を悪く言う権利があるだろうか。

 今のは極端な例であるかもしれないけれど、信念を貫徹することだけに価値を置くことも正しくないだろうと思う。そこにだけ価値を置くと、信念を曲げざるを得ない状況に置かれた人に対してどうしても厳しい目を向けてしまうだろうと思う。

 人は生きているとさまざまな局面に立たされる。時には以前とは違った信念を持たなければならないことだってあるだろうと思う。生きるために右についたり左についたりする人があったとしても、責めるべきなのはそうせざるを得ない状況(世界)であって、それをする人は責を負うべきではないと僕は考える。

 僕はそう考えているので、コイケ都知事がかつては右についたり左についたりしたことがあったとしても、それ自体は批判の対象とはならないと考えている。変えなければいけないことは、コイケの性格とか生き方ではなくて、そんなふうにしてしかやっていけないような状況の方である。僕はそう考える。

 カイロ大卒という経歴は詐称ではないかと言われている。その詐称が問題ではなく、詐称しなければ入れない世界の方が問題である。というのは、その世界は平等からほど遠いものであるからだ。

 もし、大学を中退しているのであれば、堂々とそれを言えばいいのだ。大学中退者でもその世界で成功する機会が用意されていなければならない。それが本当の平等というものではないだろうか。

 話が横道に逸れてしまったな。別にコイケさんを批判する気もなければ弁護する気もない。問題点がどこにあるのかを僕なりに見極めてみたいだけである。

 もし、ある人が時と場合によって右に味方したり左に味方したりしたとしても、それ自体は問題ではない。生き残るためにそうしなければならなかったということもあるだろう。大切なことは、それをしてまで生き残って、そして、この先どこに向かおうとしているのかである。それがただ生き残るためだけの方策であることが問題なのだ。将来、これこれのことを成し遂げるために、そのためには今死んでしまうわけにはいかないから、生き延びるために信念を曲げざるをえなかったのだと、そう言える何かがなければいけないのだ。コイケさんにそういうものがあるのかどうか僕は知らない。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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