6月11日:思い出に耽って 

6月11日思い出耽って 

 

 副業の夜勤を終え、向こうから誘われたのかこちらから伺ったのか、友達と会った。僕のような人間と親しくしてくれるのは本当に感謝すべきことだ。 

 午後から、少し歩きに出る。徹夜していて疲労しているにも関わらず、どこかへ行きたい気分だった。恐らく、逃避したいような気分だったのだろうね。 

 河原町の方に出て、新京極や御池の方まで足を延ばして、錦の市場を歩く。それから大宮まで出て、遅めのお昼を食べ、嵐電に乗って嵐山へ行く。特に用事があるわけでもない。それから帰宅する。こういうコースだった。 

 でも、用事というか、目的はあった。ダンテの『神曲』を読んでいるけれど、その『煉獄編』が見当たらないのだ。ここ数日探してきたけれど見当たらないので、新たに買い直すことにした。それが目的の一点である。 

 ところで、街中でトイレに困ったら、僕はコンビニではなく、パチンコ屋を探す。パチンコ屋でトイレを借りて、それからパチンコ台を見て歩く。気が向いたらパチンコをしてもよい。ギャンブル依存に取り組みたいと前々から思っているので、実際にパチンコを打ってみると何か学びが得られるかもしれないなどとも思う。 

 今日は2軒ほどパチンコ屋に入ったけれど、結局、パチンコは打たず終いだった。パチンコは何度かしたことがある。最後に打ったのは、パチンコ玉を確実にチューリップに落とし込む方法なるものを編み出そうとしていた時期だから、僕が20代前半の頃だ。24とか25歳ころのことじゃないかな。かれこれ17,8年も前のことだ。 

 その間、一度もパチンコを打ったことがないので、パチンコ台の進化についていけてないのだ。今のパチンコを見ると、とても難しそうで、手を出そうという気にならない。 

 過去のクライアントの中にはギャンブルで身を持ち崩してしまったという人が何人かおられた。僕はギャンブルをしないので、彼らがそれに夢中になる心理がよく分からないでいた。僕も一度、試しにやってみようかと思っていた。今日もその機会があったのだけれど、何となくではあるが、ミイラ取りがミイラになるような事態になりそうで怖かった。僕自身がそれにハマってしまったら元も子もない。 

 それに、よく考えると、僕自身にその体験がなくてもいいのではないかとも思う。体験した者でないと分からないというのは、半分は真実かもしれないが、後の半分は虚構だと思う。体験者でしか語れないことというのももちろんあるだろう。同じくらい、体験者であるが故に語ることができないというものもあるだろう。同じ病を抱えるものでないと治癒できないということが必ずしも正しくないように。 

 この後の詳細は控えよう。僕の一日など誰が読みたいと思うかね。簡単に済ませよう。 

 大宮まで徒歩で出て、そこから昼食を採り、嵐電に乗る。嵐電に乗るのがマイブームだった頃がある。何となく好きなのだ。それから嵐山に出る。以前の女性友達とも、現在交際しているYさんとも、嵐山には来たことがある。嵐山周辺を歩いて、いろんなことを思い出したりもする。過去の思い出に耽るのもまた良しである。 

 そうか、こういう思い出に耽ることが、この小旅行の目的だったのかもしれない。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

関連記事

PAGE TOP