6月1日(土):与えられた生
今日から6月である。今月の目標と計画は立ててある。これをできる限り実現する。今月は、集客云々よりも、サイトやブログの作業をメインにやっていくつもりだ。溜め込んでいた雑務もできうる限りこなしていく計画を立てている。
今日はその初日ということになったが、まあまあの出来である。朝から細々と動いていて、小さな作業をそれなりにこなした。小さな作業というのが、案外、厄介もので、ウッカリ忘れてしまったりするのだ。忘れても問題はないのだけれど、それが積み重なると結構な労働量になるのだ。できるだけ小さいうちに処理しておこうと思う。
面接以外の時間は、上記の小さい作業に加えて、原稿をひたすら書いて過ごした。
頭の中でいろんなことがひっきりなしに動き回っている。あれもこれもと考えてしまう。考えたことは書いて残しておかないと、消え失せてしまう。今の僕は、自分の中から何かが消え失せてしまうのをもっとも恐れる。振り返ると、そうして闇に消え去った思考がどれほどあるだろうかとも思う。頭の中にあるうちに、それは外在化させなければならないのだ。
勉強はジャネーを。小説はコリンズとプロレタリア文学集とを読む。順調に読み進めている。そして、今日読んだものを、読書評にすでに書き始めている。
下手をすると、6月はブログの量が膨大になるかもしれない。コラムやいくつかの項目は5月に分散させるつもりだけど、それでも6月は通常よりも多くなるかもしれない。
明日もまた仕事がある。午前の人はキャンセルとなったけど、仕方がない。忙しい時期だとおっしゃってたから。その分、時間が空いたので、サイト作業をやろうと決めている。
とにかく、なんらかの仕事をしていないといられない。直接、儲けにつながらない仕事であっても、空白の時間を過ごすよりかは遥かにいい。何もしていない状態に僕は耐えられない。生きている間に、生きられる時間内に、できるだけのことをやっておきたいと思う。そこは、引きこもりのような無力者と僕の違うところだ。僕の生活も、仕事も、限りなく引きこもり状態に近いけれど、そこだけは大きく異なる。
人生は無情である。一日無為に過ごせば、人生はその一日のしっぺ返しをしてくる。その一日を取り戻すのに、何日も、時には何週間もかかるかもしれない。人生を無駄にしてしまうと、人生の方が僕に背を向けてしまうものだ。
日々を充実させること。それだけだ。僕は今の生活を変えたいと思っている。確かに、いきなりは変えられない。これまでの流れもあるからだ。外的な条件を度外視するけど、これまでの生活を一気に変えるような人は未熟な人なのである。これまでの流れで蓄積してきたものを捨てるわけにはいかないから、一気には変えることはできない。それでも、少しずつでも生活の変革に乗り出している。
今日、僕に一日が与えられた。きっと、明日も一日が与えられる。与えられた生を無駄にしたくない。今はそれだけである
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)