5月9日:コンビニ論 

5月9日(火):コンビニ論 

 

 深夜勤務明け。今日は非常に疲れた。 

 まず、一昨日の日曜日の夜だ。雨の日だ。阪急高槻市駅の連絡通路のところで足を滑らせて尻もちをついてしまった。かつて膝を割った時と同じシチュエーションだ。あの時の悪夢がよみがえる感じだ。ただ、あの時のように踏ん張らない。足を滑らせた瞬間、僕は全身の力を抜いた。それで尻もちをつくことになったのだけれど、そこの打撲の痛みが激しい。座っていても痛いし、横になっても痛い。それもあって、寝不足が続いている。 

 加えて、これは花粉症のせいだろうか。目がしょぼつき、鼻水が滝のように流れだしてくる。滝のようにというのは大げさだな。石清水のようにというか、せせらぐようにというか、そんな感じで緩やかに流れ出てくる感じだ。いちいち鼻をかまないといけないので面倒だ。それに熱っぽい。熱はないものの、発熱時のような倦怠感がある。花粉症の諸症状が見られなければコロナに感染したと判断してしまうところだ。 

 そんなこんなで体調のよろしくない状態での深夜勤務だ。今日は最後まで持つだろうかと心配でならなかった。 

 勤務開始。最初は体が動かない感じがしていた。動くたびに打撲部に痛みが走る。軽い程度の痛みだけれど、いちいち神経に触る。 

 勤務後半に至って、ようやくなんとか乗り越えれそうな希望が生まれる。あとは自然に体が動くままに任せることにした。 

 

 しかし、まあ、コンビニの仕事も魅力がなくなった。昔ほど面白味が感じられない。客も以前とは違ってきて、なんというのか、おおらかな感じがなくなってきたように思う。世の中が非常に便利になっているので、人々ももっと気持ちがおおらかになってもよさそうなのに、10年前よりもカリカリしていて、ちょっとしたことでもガマンがならんといった感じだ。 

 ここのところ2件ほど客から苦情もいただいてるのだけれど、どちらも客の方の落ち度だった。僕から言わせれば、なんでそんなことも知らんのだ、分からんのだ、と言いたくなるところのものだ。客側が無知なのだ。 

 客が無知なら僕の方が詳しくなれば済む話である。それでどうしようかということを今日はいろいろ考えてみたいと思う。 

 

 コンビニの仕事は面白くないけれど、続けていると将来的に役に立つかもしれない。他のお店に行くとけっこう年配の人が働いていたりする。60代なら雇ってもらえそうだ。70歳になるとキツイだろう。将来的に雇用されそうであれば、今のまま続けておく方がメリットがある。どこかのコンビニ店に応募しても、年齢的なところでネックとなるだろうけれど、途切れずにキャリアを積んでいますと言えば採用の可能性がぐんと高まるだろうと思う。とにかく、働けなくなるまで、たとえ細々とでもバイトは続けておくか。 

 

 コンビニっていうのは、基本的に「何屋さん」か分からないのだ。バイトしても、それで何かが身につくというわけでもない。これは確かである。 

 スーパーだと、鮮魚部とか精肉部とか、どこかに配属される。そこで働いていると、その部門に関する知識が自然に得られるものである。鮮魚部に勤務しているだけで、魚を捌くのが上手になるということもある。知識や技能が得られるわけだ。コンビニにはそういうのが無いと僕は思っている。 

 さらに、コンビニには老舗という概念が存在しないのだ。30年やっているコンビニ店と先週オープンしたコンビニ店とに差異がないのである。従業員もそうだ。長年やっているからといってベテランというわけではなく、次から次に新しいサービスが生まれて、初心者と変わらないっていう部分がある。 

 要するに、店は老舗になることもなく、従業員も「さすがにコンビニで働いていただけあってよくできる」と言われるような何かがあるわけでもない。若いころはそういうところにも不満を覚えたものだけれど、今はどうでもいい。 

 それに、僕が子どものころは近所にこんなにコンビニ店はなかった。僕が20代の頃から、僕の家の近所でもコンビニ店が見られるようになった。あれで夜が明るくなったという感じを受けたのを覚えている。それまで、夜は暗くて、怖い場所だった。それが暗くなくなり、怖い場所ではなくなったのだ。それはコンビニのおかげだと思っている。まさに、コンビニは深夜の希望であって、そこで働くことは希望の星になることだと言えなくもなかった。でも、今はそんな希望も廃れ果てたものだ。真夜中が明るいことに何の希望も見いだせない。 

 

 若いころは客とも仲良くしようと思っていたが、今はそんな気になれない。客を見ても、あまり好きになれそうな感じが僕にはしない。打ち解ければ、一人一人の人はいい人だったりするんだろうけれど、どうもそこまでやろうという気がない。自分の仕事をひたすらこなすことしか考えなくなっている。興味が失せるとそんなふうになるのか。自分でも新発見だ。 

 ともかく、不満もあれ、面白くないこともあれ、それでも生命が僕を手放さない限りは生きなければならない。なんの希望もなくとも、とりあえず、今日一日を生きた。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

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