5月6日(水):コロナ・ジェノサイド(39)~攻撃性の行方(2)
僕たちは誰もが心の中に「悪」の要素を抱えている。攻撃的な衝動とか破壊性といった傾向を心の中に持っている。なぜ全員がそれを持っているのかという話はここでは展開しないでおく。一言だけ言えば、誰もが幼児期を経験しているからである。
僕たちの中にある「悪」は、社会で生きていくために、共同で生きていくために、しっかり抑圧(抑制)されていなければならない。当然、これは困難な作業である。通常、20年近くかけて人はこの作業を遂行するのである。それだけ困難な作業であるが故に、それが上手く遂行できなかったという人も生まれる。そういう人にとって、「悪」は心の表層に近い所にあることになり、常に身近なものになっている。表層に近いところにあるほど、自我の統制が緩むと、「悪」は容易に意識化され、心を占めることになる。
さて、コロナとは戦いであると言われる。戦争と比喩されたりもする。その戦争に一丸となって参加し、協力して戦うことが暗に求められるわけだ。こういう風潮はいやが上にも自分たちの攻撃性を高められてしまう。僕がウイルスと戦う意志がなくても、そういう風潮が生まれていれば、それは直接的にも間接的にも、僕に影響を及ぼす。僕も戦いに参戦するということになれば、僕は僕の攻撃性を発揮させなければならなくなるだろう。
マスコミの報道とか社会的な風潮とか、そういうものによって自分の中にある攻撃衝動が高められるとしても、それを適切に昇華する道は制限されている。仕事であれ、スポーツであれ、レジャーであれ、その他の文化的活動であれ、多くの領域で制限を受けている。攻撃衝動は高められるのに、それを昇華する手段が限られているところに、現在の自粛生活の困難があると僕は感じている。
ちなみに、今、僕は「昇華」という言葉を使った。攻撃衝動の「発散」ではないということを強調しておきたかったのである。攻撃衝動を発散すると、たちどころにその衝動が消失するように経験されるものであるが、これは未熟な人格が取る手段である。ムシャクシャするから暴れたとか、殺してみたかったから殺したとか言うのと変わらないのである。心の中にある悪を、昇華させることなく、そのままの形で外在化させるだけなのである。後でスケープゴートのところで取り上げることになるけれど、それは自分の「悪」に覆いをかけ、ごまかすだけのことである。
僕たちの中にある「悪」は、望ましい方へと導いてやらなければならないのである。このことは最後に述べよう。
本当の敵は僕たち一人一人の中にある「悪」である。それは攻撃衝動、破壊傾向などであり、不安や恐怖心なども含めることができよう。
この「悪」が医療従事者に投影されてしまうのである。しかし、忘れてならないのは、この投影はどの業種の人に対してでも起こり得るということである。ここでは医療従事者を取り上げているだけである。
平素から医療に関してあまりいいイメージを持っていない人(僕みたいに)は、こういう機会に悪い観念が浮かんできやすくなるかもしれない。攻撃性の矛先として医療機関を選んでしまうことになりやすいかもしれない。
コロナ禍の現状では効果的な治療、有効な薬、ワクチン、病床などが欠如している。患者が医療に求めるものを医療が提供できない状態にある。この状況もまた医療を怒りの的としていることに与っているかもしれない。
また、院内感染の報道が相次ぐことから、病院が感染源としてスケープゴートされているということもあるだろう。特に、感染拡大を防ぐために無理に自粛している人ほど、そういう感覚を強く持っている人ほど、病院内で感染が広がることに腹立たしさを覚えるかもしれない。
スケープゴートの構造は、「悪」を告発することで自分の「善」を確保することである。それをすることで自分が正しいと信じることができるわけである。スケープゴートの産み手はスケープゴートの担い手を必要とする。常に自分の中にある「悪」を引き受けてくれる対象を必要とし、常に「悪」とされている人たちと関り続けることになる。
スケープゴートの産み手は、それを担ってくれる対象のおかげで、自分たちは正しいという感情を経験できるわけであり、この担い手たちを迫害することは彼らにとっては正しい行為となる。言うまでもなく、これは偽の正義である。偽の正義によって偽装された攻撃性である。自分の「悪」に覆いをかけるようなものである。
スケープゴートの産み手たちも、自我統制が緩み、「悪」が常に表層化しているのかもしれない。ただし、その「悪」は自分に属しているのではなく、対象に属していることになっているので、それ以外の対象との関りでは攻撃性を発揮することはなくても、その対象に対しては容赦しないということになるかもしれない。彼らにとっては、その「悪」は決して許すことのできないものなのである。完全に抹消しなければならないものなのである。
通常の告発とスケープゴートによる告発とはそこが大きく異なると僕は思う。スケープゴートによる告発は情け容赦ないのである。通常の告発が対象の改善や矯正を目指すことに対して、スケープゴートは対象の破壊を願うのである。
こんな話をしているとどこまでも続けてしまうので、この辺りで締めくくろう。
医療従事者に対する差別を止めようと呼びかけるCMからこの話を展開してきた。「差別を止めよう」ではなく、「自分の中の悪に目を向けよう」という呼びかけが必要なのだ。それがここでの僕の結論なのだ。
自分の中に攻撃衝動や破壊性が目覚める。これらは人間には有るものなのだ。ただ、それが目覚めた時に、僕たちはそれを監視し、それを「飼いならす」ことをしなければならないのだ。「悪」、攻撃性や破壊性をそのままのさばらせてはいけないのだ。
もし「悪」をのさばらせた場合、つまり自分たちの「悪」に無自覚である場合、知らず知らずのうちに主体がそれに乗っ取られてしまうのだ。「悪」に主体を委ねることになるのだ。これは間違った生き方である。本来、主体が「悪」を監視し、取り扱うのである。
どうやって取り扱うのか。フロイトの言うように、攻撃性は愛に奉仕しなければならないのだ。攻撃性は愛の傘下に入ることで昇華の道を辿ることができるのだ。僕たちに求められているのは「戦い」ではないのだ。僕たちの愛の能力が試されているのである。今の現状に試練があるとすればそこである。コロナ禍が試練なのではなく、愛情能力が試されていることが試練なのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)