5月30日(木):川崎事件
今朝、少し時間があったので、ほんのわずかだけどテレビを見ることができた。川崎の事件に関して、犯罪心理学者がコメントしているのを聞いた。
昨日、クライアントから川崎の事件についてどう思うかと尋ねられて、僕は「分からん」と答えたのだけど、クライアントはこれだけの本を読んでいるのに分からんのかということをおっしゃった。その通りである。書物に答えは載っていないのである。それに、心理学とはそういう学問ではないのである。私が人を理解する時、その理解の主体は私であって心理学ではないのである。心理学が理解の道具であり、且つ、それは私の理解の裏付けになるに過ぎないのである。加えて、心理学を勉強すればするほど、人の心とか精神に対して軽々しくものを言えなくなるものである。
それはさておき、その犯罪心理学者の言うところでは、事件の背景には「拡大自殺」があると言う。さらに、犯人には自己顕示的な傾向があるとかなんとか、そんなことを言っていたな。
多分、その見解は一理ある。行為の行き着く先がその行為の目的であると解すれば、犯人は最後に自害したのだから、これを自殺と見ることは可能であろう。しかし、この自害が初めから計画されていたことなのか、その場で急遽決定されたものであるかは不明である。最後に自害することで、犯人は自己を隠蔽したのだから、自己顕示的であるかどうかは疑問が残るところである。
まあ、マスコミが報道する情報だけに基づいてコメントするわけだし、それにテレビという制約もあるだろうから、それくらいしか言えないのかもしれないし、割と無難なところのものをコメントしたという印象を僕は受けた。
それでも、一つ学んだことがある。専門家のコメントって、あれでいいのかと、改めてそう思った。一般の人はその説明で納得できるんだと思った。本当はあのコメントは何一つとして説明をしていないのだけれど、専門家によって何かが語られれば、テレビ的にも十分なんだろう。
昨日、僕がクライアントから問いかけられた時、僕の頭に浮かぶ疑問は次のようなものである。どうして犯人はあの人たちではなくこの人たちを襲ったのだろう、どうしてあの場所ではなくこの場所だったのだろう、どうしてあの凶器ではなくこの凶器だったのだろう、どうしてあの日ではなくこの日だったのだろう、どうしてあの時間帯ではなくこの時間帯だったのだろう、19人も襲ってどうして全員死に至らしめなかったのだろう、どういう人が負傷してどういう人が無傷だったのだろう、どうして犯人は40代の時にではなく50代で事件を起こしたのだろう、といった疑問である。
他にも疑問点はいくらでも挙げることができる。そして、上記の問いの一つ一つに意味があるはすである。
例えば、犯人は子供と保護者を襲った。子供を襲うのは子供が無抵抗だからだといった解釈も成り立つだろう。でも、それならお年寄りや病人、障害者でもいいはずである。病院や施設を襲う方が、路上で襲うよりも成功率(と言ってよければ)が高そうなのに、犯人はそうしなかったのである。だから、犯人には、対象は子供でなければならない犯人なりの理由があったはずである。
さらに、対象が子供でなければならないのであれば、子供しかいない場面の方が目的を果たせそうなものである。幼稚園とか学校とかの方がよかっただろう。なのに、なぜスクールバスの所だったのだろう。犯人にとって、子供だけではなく、そこに保護者の存在、大人の存在もなければならない事情があったのかもしれない。つまり破壊したいのは子供なのか親子の関係なのか、である。
その意味では、子供を襲うことは、その親たちを苦しめることになるから、彼が本当に襲いたかったのは親たちであったかもしれない。ギリシャ悲劇の「メディア」のように、子供を殺すことが、親への復讐になることだってあるだろう。
また、犯人はどうして凶器に刃物を用いたのだろう。それこそ自動車で突っ込んでもよかったのである。火炎瓶を投げつけることもできたはずである。他にもいろいろ手段はあり得ただろうけど、どうして刃物で切り付けるという手段を選んだのだろうか。そこにも犯人にとっての意味があるはずである。
さらに、犯人は19人を死傷させ、自身も自害した。自分は20人目である。こうした数字に意味がないだろうか。犯人にとって、特別の意味のある数字であったのではないだろうか。自分は18人目にも21人目にもしなかったのだ。何か意味があると想定することは間違っているだろうか。
僕はそれらの問いに答えられないから「分からない」としか言えないのである。
何事もそんな調子である。何か一つのことを考えたり、あるいは問われたりすると、僕の頭の中で無数の問いが飛び交うようになる。僕の中で目まぐるしく思考が回転していく。答えを求めるだけの人は、僕から見ると、気楽な人たちである。
そして、専門家とはそういう存在なのだ。一般の人は答えを求めるが、専門家は問いを生み出し続けるものである。どの分野の専門家であれそうだ。僕はそう思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)