5月29日:いつかケリがつくだろうか

5月29日(水):いつかケリがつくだろうか

 

 今日の最終枠が無断キャンセルとなったので、時間が空いた。いい機会だ、今日のブログを書いておこう。

 やはり、当日予約で引き受けた人は当てにできない。僕はそれを再認識した。予約を取ってから面接までの過程を踏んでいないので、やはりダメである。

 まあ、医者の治療は続けるようにとはその人に言っておいたので、そちらは続けるだろう。若い人だったけど、その人のような人がどうなっていくかは目に見えるものである。何人もそういう人とお会いしたからある程度の予測がつくのである。若いうちにしっかり軌道修正しなければならないのであるが、若い人はそこを過小評価してしまう。

 

 あれやこれやの雑用に追われている。

 動画広告のことで連絡があった。明日連絡するつもりであった。その動画広告をチェックしなければならないのだけど、なかなかそこまで手が回らない。

 

 今日のキャンセルとなったクライアントの件で、虐待を受けた人がその後どうなるかというテーマでページを設けようという気持ちになった。

 虐待的な環境から生き延びた人、僕はそれをサバイバーと呼ぶんだけれど、彼らは二つの問題を抱えてしまう。過去と現在の問題である。僕は現在から取り組まなければならないという考え方をしており、それ(現在)をすっ飛ばして過去に目を向けるのはよろしくないと考えている。この辺り、サバイバーの望むものとの間にずれが生じているのだけれど、なかなか彼らに理解されない部分である。

 サバイバーたちは、虐待環境から何らかの形で抜け出てから、8年とか10年後に生き辛さを経験するようであるが、それにはれっきとした理由があるのである。僕はそう思う。問題とか「病」が、その時ではなく、「後発」するのである。ケッタイな話であるが、虐待環境から脱却しているが故にそれらが生じるのである。

 そうしたテーマで綴りたいと思うので、興味のある方はご期待していただければと思う。しかし、いつそれに着手できることやら、現時点では未定である。

 

 この3,4日はバタバタしっぱなしで、世間のことにまったく意識を向けられず。トランプが来ていたってことは知っていたけど、まったく関心が向かなかった。

 今日のクライアントから川崎の事件のことを尋ねられた。僕はチラッとしか聞いていないので、何とも分からないとだけ答える。

 事件の報道だけからあれこれ言うのはムリである。必要な情報がまったく得られないからである。例えば、「その人(犯人)はどんな人でしたか」とマスコミは犯人と面識のある人に尋ねたりする。尋ねられた側はそれに答える。実は、こんな問いはほとんど必要ではない。それなら、むしろ、「その人と会うとどんな経験をしますか」と尋ねてほしいところである。その方が有益な情報が得られるというものだ。

 事件を起こした犯人のことなんか、分かりっこないのだ。犯人は何人もの人間を殺したということであるが、これは我々の視点である。当の犯人には殺していたのが「人間」であったかどうかさえ、我々には、定かではないのだ。

 今回の川崎のような事件は今後とも後を絶つことはない。僕は断言する。一億総Moral Insanityの時代である。

 

 それと、親子関係の理論はもう古いと僕は感じている。かつては親子関係において人格形成がなされるものであり、人格形成が不十分であるとか、人格が破綻したとかいう場合、親子関係を中心に考えるのが普通のことであった。果たして、現代はそうだろうか。個人の抱える心の問題は、すべて親子関係に帰属させることができるだろうか。それができたとしても、本当にそれが正しいだろうか。

 僕は思う。人格形成を妨害したり、あるいは人格を破壊したりする要因は、親子関係よりも、メディアツールにあるのではないか、と。要するに、ネットとかスマフォの世界である。ユーチューバーは自分にしか通じないストーリーを演じる。ブイチューバ―(なんて人たちもいるらしい)はもはや個人の喪失である。VR(ヴァーチャル・リアリティ)の普及は現実感覚を希薄化させるだろう。ラインは「つながり」強迫を生み出すだろうし、ゲームは個人を廃人化させる。まあ、よくもまあ、これだけ精神的に悪いものが普及したものである。

 そういえば、一昨日、ゲームに課金する人のことを聞いた。ゲームにはランキングがあって、その上位に位置しようとすれば、毎月5万円くらい課金しないといかんらしい。いやはや、狂気の沙汰である。

 

 ああ、そうだ、モラル・インサニティのことをどっかで書いたな。あのコラムも中断したままだ。ある程度完成したら公開しようと思っていたけど、宙ぶらりんになったままだったな。こうして、やりかけの作業、中断したものを思い出すたびに、僕は自分の不甲斐なさに落ち込む。

 次から次へと、作業が嵩んでくる。仕事をしていると、生活をしていると、日々、新たなテーマに遭遇するものである。遭遇するたびに着手するので収拾がつかなくなる。いつかすべてにケリがつく日が来るのだろうか。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

 

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