5月26日(金):つまらぬ一日
今日は月末の外回り関係のことを終わらせる。銀行に行ったり、支払いを済ませたり、必要なものを買い揃えたりする。できるだけ一日で終わらせる。次の一ヶ月間、出たり入ったりをしないで済むようにしておく。
外回りはいいけど、道中、何軒かの古本屋に入り、ついつい買ってしまう。えらいこっちゃ、18冊も買ってしまった。文庫本が4冊、新書が4冊、ハードカバーが10冊だ。内容別に見ると、ミステリが3冊、その他の小説が5冊、心理・哲学系の専門書が10冊ということになる。
18冊で6000円ほどだった。安い買い物ではあったが、少々、買いすぎたかと思う。でも、上等だ。一ヶ月で読んでやる。
当初の予定では、外回りを終えると、後は執筆に専念するはずだった。でも、気が緩んでしまって、そのまま外を歩き続けてしまう。夕方から、飲み始める。
久しぶりに京都で飲んだ。河原町から木屋町辺りは、もう行きたいと思う店がなくなった。それでも、気になったお店には入ってみて、一杯だけ飲んで出る。そうして何軒かのお店に足を踏み入れたが、これと言って、いいと思うお店もなく、もう一度行きたいというお店もなかった。
某立ち飲みやでは厨房の雑さが目に付いてしまったし、某バーでは酒を間違えられるしで、いいことなんぞ何もない。後者は正確に言うと、僕はスコッチを注文したのに、バーボンを出されたわけである。某串揚げ屋は落ち着かないし、某スナックはカラオケを爆唱する連中に占領されるし、最悪である。カラオケも普通に歌われる分にはまだ許せるけど、あんな大音声で歌われると、腹が立つ。マナーもへったくれもなければ、店員も放置したままだ。ひどいものだ。
京都は京都ブランドに頼りすぎていると僕には思われる。そして、明らかに観光客を意識しているし、観光客しか眼中にないような店もある。
最初の居酒屋で隣のじいさんと意気投合した。いや、表現が正しくないな。じいさんが一方的に話しかけてきて、一方的に仲良くしてきたのである。二軒目はじいさんの奢りで、じいさんの行きつけの飲み屋に付き合う。
このじいさん、息子さんが俳優さんなんだそうだ。大河ドラマにも出たことがあるという。写真を見せてもらったけど、世界の七不思議だ。あのじいさんによくこんなイケメンの息子が生まれたな。
まあ、それはいいとしても、じいさんの話はなかなか興味深かった。息子の撮影の日、じいさんは現場に行って弁当を配ったそうだ。大体、スタッフなんかも含めて60人くらいだそうで、60人分の弁当を手配したそうだ。息子のためにそういう手回しをしていったのだそうだ。それを考えると、一人の俳優が育つために、莫大な投資がなされてきたのだろうなと思う。どの世界も、実力だけではやっていけないのだとも思った。
じいさん、三軒目で祇園に行こうと誘ってくれたが、僕は祇園はごめん蒙ると言って、そこでじいさんと別れた。祇園で、また誰かを見つけて、また同じようなことを話すのだろう。
飲み屋で音楽が、BGMが流れている。何気なく聞いていた。ひと昔前の歌で、「生まれ変わっても自分でありたい」という一節が聞き取れた。ふと、思う。「生まれ変わっても自分でありたい」というのは、自己肯定を歌っているのだろうか、それとも自己否定を歌っているのだろうかと。
恐らく、歌手側はこれを自己肯定の意味合いで歌っているのだろうと思う。「生まれ変わっても自分でありたい」というのは、僕には自己否定にしか聞こえないのである。本当の自己肯定は「自分は自分一代で十分だ」と言うのではないかと僕には思われるのだ。
まあ、何にしろ、つまらない一日を過ごした。こんなことになるくらいなら、外回りの後は職場に直行して、夜まで執筆している方がましだった。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)