5月25日:自殺志願者

5月25日(土):自殺志願者

 

 急遽、午後からの予約がキャンセルとなる。時間が空いたのをいいことに、これを書いている。一日は終わっていないけど、今日の日記をしたためておこう。

 

 今日はなかなか良くやっている。昨日に引き続いて、作業が調子よく進んでいく。いつもこんな調子なら申し分ないのであるが、どうしても波がある以上、できる時にできるだけ前に進んでおかないといけない。

 

 と、ここまで書いてきたところで、いきなり電話がかかる(おかしな言い方だ。電話なんていきなりかかってくるものだ)。自殺しようという男性からの電話だ。当日予約の人は断りたかったけど、午後のキャンセル分を取り返さないといけないので、不本意ながら夕方に予約を取る。

 自殺するならしてくれても構わないのだ。僕自身は自殺が悪いことだとは思わない。さりとて、自殺が何かの解決になるとも信じていない。単に生を維持しているというだけの状態は生きているとは言わない。そういう意味では、生きながらにして生きていない人も多いものである。彼らもまた自殺者なのである。

 僕もまた厭世感情の強い人間である。スキを見せると自殺してしまいかねない人間である。こうして生きているのは、死が許されなくなっているからである。生きているとはそういうことなのだ。関係やしがらみ、予定や作業の網に雁字搦めにされていて、いつしか自殺のことが意識に上がらないだけのことである。

 僕は人が自殺する場面に遭遇したことがある。20代半ば頃のことだ。電車に乗っている時のことだ。僕は一番先頭の車両に乗っていたのだけど、男性がそこに飛び込んだのだ。あの時の、グシャグシャ、ポキポキと、骨肉の砕け散る音が今でも耳にこびりついている。自殺なんてきれいなものではないし、あの瞬間に一人の人の人生が終わったのかと思うと、死なんて呆気ないものである。

 死ぬのは簡単である。生きる方が難しいのだ。そして、生きているどの人もその難しい状況で日々を生きているのだ。このことを信じない人もあるけど、それはその人の自由である。要領よく人生を生きている人がいると、そういう人は信じているのだけれど、もしある人が要領よく生きているとすれば、それは生き難さの反動でそうなっているのであって、生きることが難しいことに変わりはない。

 どの人も難しい生を送っている。僕の生が難しいというのは、僕が人間であることの証拠である。生の困難が、人間の一員であることを僕に示してくれているのだ。自分だけそこから逃れようとするのは、卑怯者のすることである。

 さて、夕方、どんな自殺志願者がやってくるのか、僕は楽しみである。不謹慎なことではあるが、そういう人に興味がある。

 

 夕方までもう少し時間がある。今日の分はこの時間に書いてしまおう。

 今日の夕方は、本当はちょっとした用事があった。まあ、私用なので延期しても一向に差し支えないのであるが、この予約のおかげで予定の幾分かは狂ったことになる。また、このブログを書き終えたら、動画広告のチェックをしようと思っていたのだけど、それも先送りになりそうである。

 このことを書いておくのは、僕がそれに意識的になるためである。そこを意識していないと、この後でお会いする自殺志願者に対する否定的感情を闇雲に高めてしまうことになりかねないからである。

 一方で、自殺のテーマは書籍のテーマと関連することに思い至っている。自殺テーマを盛り込んでもいいなと思い始めている。この自殺志願者のおかげで、自殺ということが意識の舞台に上がってきた感じがしている。

 書籍に取り組みたいのだけど、まずは動画広告を終わらせないと。動画広告と言えば、いい加減、興味が薄れているので、半ば投げやりになっている。もう、どうでもいいやってな気持ちになっている。願わくば、早く解放されたいということだけである。解放されるまでに、もう一仕事しなければならない。それまで何とか気力を持たせておかないといけない。

 

 いい時間になった。そろそろ面接の準備を始めよう。どんな自殺志願者がやってくるのか、不安もあるけど、少し楽しみでもある。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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