5月25日:想像の友達にお別れを 

5月25日(木):想像の友達にお別れを 

 

 今日、午前中は家のことを手伝う。ついでにブログの原稿を4件ほど書いておく。 

それから月末の外回り業務を一部済ませる。道中、買い物をする。消耗品は100円ショップで買うのが一番いい。おっと、もちろん、マカロニウエスタンDVDマガジンも購入した。今日が発売日だ。 

 

外は雨。雨降りの日は足の具合が悪くなる。これは気圧の関係もあるらしい。億劫だった。歩くと痛みがあるうえに、間接が噛み合わないような感じに襲われたり、力が入らなかったりする。午後から、雨上がりに応じて膝の具合も良くなっていった。夜、一時的に調子が良くなったけど、長続きはせず。平均すると、中の下といったところだ。 

 昼ごろ、職場に着く。缶詰の惣菜をおかずにしてご飯を掻き込む。それが昼食だ。それから午後の仕事に備える。 

 

 どうやら、あるクライアントのテストに僕は落第したようである。その人は理想のカウンセラーを探しているようだった。それはそれで構わないのだけど、僕はその人の理想には程遠かったようである。却って良かった。 

 もし、その人が理想のカウンセラーと出会ったらどうするだろう。カウンセラーを殺すかもしれないな。孤独な子供が想像上の友達を持つように、その人は想像上のカウンセラーを持っていたようだ。時々、そのようなクライアントが来られる。想像上の援助者、救済者を持っている人たちだ。この人もまた、他の人たちと同じように、苦しくなると、そのカウンセラーにすがりついてきたようだ。 

 この人はどうもそのカウンセラーを現実に探すようになっているようにも思われる。しかし、ここが肝心な点だ。この空想のカウンセラーは、この人が頼りにしてきた人物であると同時に、この人を助けることのできなかった人物でもある。どちらの感情でこの人が動いてしまうかで、結末は異なる。当然、後者の方が問題になる。恨みの感情が生まれているからである。 

 子供時代の想像上の友達、想像上のカウンセラーとは、いつか決別するものである。子供時代の思い出にしていくべきである。 

 いや、実際、そうである。空想上の友達を持つ人は案外多いのである。友達でなくても、空想上の悪役だったりすることもある。しかし、これらの空想上の人物はその人格性を失うものである。子供時代に想像上の友達がいたという記憶は残っても、それがどんな人物であったかは徐々に薄らいでいくものである。それでいいのである。それはその人物と別れることができている証拠である。 

 いつまでもその人物像を保持するというのは、僕にはいささか執着的であるような感じがするのだ。この執着性は憎悪に基づくものかもしれない。 

 そんなこんなで、僕がその人の理想のカウンセラーから外れたことは、僕にとって喜ばしいことである。そして、願わくば、今後ともその人が理想のカウンセラーと出会ってしまわないことを祈る。 

 

 夜、仕事を終え、喫茶店に入る。コーヒーを飲んでから帰りたい気分だった。 

 キルケゴール「不安の概念」を読む。折に触れて紐解く本だ。2時間ほどかけて3分の2ほど読む(全5章中、第3章まで読み終える)。 

 

 それから帰宅。早速マカロニウエスタンを観る。今回収録分のうち、『ガラガラ蛇の夜』をチョイスする。この日本語タイトルがいいね。時代とB級っぽさが感じられる。なかなか面白かった。これはまたの機会に取り上げよう。 

 

 時刻は26日の午前2時半。21時半頃、喫茶店でタバコを切らして、そのままにしているので、今で5時間ほど禁煙したことになる。 

 その間、一度だけコンビニまで行ってタバコを買ってこようかなと思ったが、映画を観ている最中だったので、断念した。映画の後は、パソコンで原稿を書いて過ごしている。このブログもそこで書いているものである。 

 5時間ほどしか経過していないけど、それなりに変化は感じられる。変化と言えるものではないかもしれないな。それに、かなり喉をやられていたので、かなり悪いところからスタートしたのだ。 

 わずかだけど、声の通りがいい。声の出しづらさはあるけど、声に回復が感じられる。 

 この後就眠する。その間に禁煙時間を稼げる。そして、明日は外回り関係を終わらせようと計画しているので、タバコを持たずに外を歩いていれば、それなりに禁煙ができそうにも思う。 

  

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

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