5月17日:長文メールと二重拘束

5月17日(金):長文メールと二重拘束

 

 今日は臨時休業した。家のことで何かとやらなければならないことがあったのと、ついでに図書館に行って書籍と資料の収集をしておこうと計画していた。

 家の方は午前中で片が付く。図書館に向かう。駅からテクテクと歩く。結果、図書館では探している書籍は無く、資料収集もする気力が失せ、一冊だけ本を借りた。その後、古書店に入り、ついつい衝動買いしてしまう。5冊も買う。うち一冊は読み終え、二冊目に突入している。

 どこかで昼食かお茶でもと思ったけど、京都の店には入る気がしない。空腹と喉の渇きを覚えながら、結局、高槻まで出る。何をしているのやらである。まあ、お日さまの下を歩いたのは良かったかな。僕のような日陰者は時には日なたに出た方がよい。

 

 さて、歩きながら昨日のクライアントのことを考えていた。正確に言うと、クライアントの話の中の一エピソードのことを考えていた。

 人間関係で何かこじれることがある。その後、相手から長文のメールが送られてきたなんて話はザラにある。ここでは長文メールの「送り手」と「受け手」と名づけよう。大概の場合、クライアントになるのは受け手の方である。

 送り手と受け手の関係もさまざまである。友人、夫婦、恋人、親子、上司と部下といった間柄である。

 長文メールの内容は、まあ、想像にお任せするのであるが、恐喝まがいのものやら、文句や苦情が延々と続くものやら、さまざまである。いずれにしても、受け手は衝撃を受ける。心的に動揺したり、落ち着かない境地に追いやられるような経験をしてしまうのだ。だから受け手の方が僕に相談してくるのだ。

 送り手がクライアントにならないのは、メールを送信したところで完結してしまっていることもあるだろうけれど、恐らく、送り手の方が病理が深いからであろう。そのことも関係しているとは思う。

 

 さて、長文メールの内容がどんなに凄まじくとも、送り手がそれを実行する可能性は低いと僕は考えている。と言うのは、この長文メールには「甘え」が含まれているからである。これだけのことを「分かってよ」という気持ちである。僕はこれは受け手に対する送り手の甘えであるように思うわけだ。だから短文メールの方が恐ろしいのである。

 次に、メールというツールにも関係することなんだけど、無機質な文章で送られてくるところで受け手の恐怖感を高めることになるようだ。受け手が受ける衝撃がそこで大きくなる。

 それだけではなく、その長文メールには、これだけのことしたということをあなたは認めなさいとか、私のこの怒りを受け入れなさいとかいった、そういう形の無言の圧力が含まれているのである。この圧力は「二重拘束」の形でなされていることが多いと思う。もし、長文メールを詳細に検討してみれば二重拘束がいくつも見つかるだろう。

 この二重拘束ということであるが、送り手は何かを答えるように受け手に求めながら、受け手のいかなる言葉も聞かないという態度で示されたりする。一方で意見を求め他方ではいかなる意見をも拒絶する、反論しなさいと求めると同時にいかなる反論も受け付けないといったメッセージを送る、許してほしければ謝りなさいと求めながらどれほど謝っても許さないといったメッセージを送る、そういった矛盾が同時に受け手に送られてくるのである。

 メッセージは二重構造を持つが故に、二重拘束は生まれるものである。言語的メッセージと非言語的あるいはメタメッセージから構成されるので、両者が一致しないということは普通に起こり得ることである。当人の中でまとまっていなかったり、分裂していたりすると、尚更そういうことが生じやすくなるようである。

 けっこう典型的なのは、若い人に向かって「大人になれ」と言う場面である。一方では大人になれと言い、同時に大人の言うことに従え(「大人になれ」という大人の命令に従うこと)いうメッセージを送っているわけだ。大人の言うことに従うことを期待していることで若者を子供の地位にとどめるメッセージを送っているのである。

 他にも、「強くなれ」とか「自分で考えろ」といった命令も同種の二重拘束を含んでいることがある。

 偶然にも、今日古書店で購入した小説にもそれがあった。「死ぬほど私を愛しているというのなら、死んでごらんなさい。そうすれば本当に愛していたと信じてあげる」といった一節である。これが二重拘束であるということはお分かりいただけるだろうと思う。愛しているということを示すために死ぬことを求められるのであるが、それと同時に、死んでしまえばもう相手を愛することができなくなるのである。愛の証明を求められると同時に、愛の終了が強要されてしまっているわけだ。

 

 二重拘束メッセージは通常に生じるものである。矛盾したメッセージが同時に送られても、通常の場面では、どちらか一方のメッセージに応じることで、お互いに二重拘束の存在に気づくことなく、その場が流れることが多いように僕は思う。それはそれでいいのではないかとも思う。

 受け手を苦しめるのは、どちらか一方に応じるということができなくなるためである。矛盾する両方のメッセージに同時に応じなければならないといった圧迫感を受け取るようである。

 送り手の方はと言うと、内面的に混乱しているので、メッセージに矛盾が生じやすくなるだろうとは思う。しかし、そういうメッセージに親和性があるという人もおられるようだ。生まれてから幾度となくそのような二重拘束状況を経験してきたという人もあるわけである。大抵の場合、親とか家族状況からそうしたコミュニケーションを身に着けてしまうのである。

 

 では、二重拘束からどうして抜け出せばいいかという疑問が出るだろうと思う。基本的には、どちらのメッセージにも応じないことである。そのメッセージの文脈以外のことであれば、何を返してもいい。

 例えば長文メールで長々と綴られていて、一方では謝れと要求され、他方ではいくら誤って許してやんないといったメッセージが送られているとしよう。罪とか謝罪とか、許す許さないといった文脈から離れた方がいいわけである。

 例えば、「もう少し内容をまとめてもらえませんか」でもいいわけである。「おっしゃりたいことはどういうことなのでしょうか」を繰り返し続けてもいいのである。

 僕は意地悪な人間なので次のように返すかもしれない。「あなたは今、とても感情的になっているようだから、落ち着いてからメールをください」(実はこれは二重拘束「返し」である。と言うのは、感情的にさせておいて感情的になるなと言われているように相手は経験するからである)とお願いするかもしれない。

 

 長々と綴ってしまったな。いずれサイト側でこういうテーマを取り上げるかもしれない。細かなことはそこで書こう。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

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