5月13日(水):もっと怒れ
日本人よ、もっと怒れ。怒ることは何も悪いことではないのだ。怒りのコントロールをやって腑抜けみたいな人間になるよりかは、いつでも内に怒りを秘めている方がいいと僕は思っている。
僕の言っていることが極端に聞こえるかもしれない。それはキレると怒るを同一視しているためである。キレるは怒りとはまったく異なった心的活動である。キレてる人を見ると怒りに身を任せているように見えてしまうかもしれないが、あれは自己の均衡を保つための最低限の防衛機制なのである。
怒りに関係する相談も多い。夫が怒りっぽくて、妻がその怒りに耐えられないという夫婦を例にしよう。これは実例に基づいているのだけれど、この夫は怒りっぽい傾向はあるが、暴力は振るわないという人であった。
この人が怒る場面というのは、正当なものである。つまり、そういう状況では頭に血が上ってしまうだろうなと納得できるような場面で怒りが生じているのである。理不尽な怒りではないわけだ。
彼は独りで怒っているのだから、自由にさせておけばいいのである。それで誰かに危害を加えたとか、そういう経緯は認められないのである。要するに、怒りに駆られてもケンカとか暴力沙汰とかを起こしたことはないのである。いつも独りで怒っているだけなのだから、怒らせておけばいいのだ。やがて鎮まるのが彼の常だった。
ところが、彼の妻はそれが許せないということになっている。こういう妻、要するに他人の怒りに敏感の反応し、嫌悪するというような人には、ある種の傾向があるようだ。最近、僕の中で確信となってきたことだ。
この妻のような人は、子供時代に、怒りっぽい親と一緒に生活していた経験があることが多いようだ。家庭の中に常に親の怒りがあったという家庭環境で育ったりしているのだ。なるほど、そういう経験があれば夫の怒りに耐えられないのももっともである。
しかし、それで納得してもらったら困るのである。この妻は自分の両親と精神的に親離れができていないのである。親の怒りを警戒しながら生きていた女の子のままなのである。妻もまた問題を抱えていることになるわけであり、僕が今思い出しているケースでは、夫よりも妻の方に重篤な問題がある。夫は妻に勧められて僕のカウンセリングを受けに来たのだった。
これは要するに、妻が夫を変えたがるということであり、言い換えれば、妻は自分の父親を変えようとしているということである。本質的にはそのような行為なのである。そして、妻自身は子供のままに留まろうとしているのである。
怒りは自然の感情である。それを悪とみなすのは、僕に言わせれば、短絡的な思考である。じっくり彼の言い分を聞いてみれば、彼の怒りは正常なものであることもある。言い分を聞かない限り、あるいは彼を理解し損ねる限り、彼の怒りの表出が異常であるように見えてしまうのである。
もっとも、今の話でも、その怒りの正当性というものはかなり緻密に検証しなければならないものである。大雑把な理由で怒りを正当化するわけにもいかないのである。
怒りは、それが昇華へと道を譲って行けば、それがもっとも良いのであろう。もし、それができない場合でも、その怒りが建設的に役立つのであればまだましである。その怒りによって物事がいい方向に前進する場合もある。
怒り=悪、という単純図式はいささか幼稚なものである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)