5月12日:「私、日本人でよかった」? 

5月12日(金):「私、日本人でよかった」? 

 

 出勤前、自宅にてワイドショーを見ていた。親がテレビをつけるので、自然と見てしまう形になるのだけど、そこで気になる話題を取り上げていた。それについて考えていたので、ここにメモしておこうと思う。 

 それはあるポスターに関するものだった。京都の神社などで、6年ほど前から貼られていたものらしい。京都に住んでいながら、僕は一度も見たことがなかった。 

 ポスターには一人の女性が写っており、そこにオーバーラップするような感じで日の丸が重なっている。女性の左横に「私、日本人でよかった」という一文が刷られている。そして、モデルの女性が実は中国人だったということが今回判明したそうだ。それに対するツイートもいくつか紹介されていた。 

 出勤時間があったので、僕はこれを途中までしか見ていない。最後、どんなふうに議論が展開していったのかは知らない。しかし、出演者もツイッターも、僕にはどこか見当外れだという気がしてならなかった。 

 

 まず、ポスターの文言から入ろう。 

 もし、これが日本の風景を写して、「私、日本に暮らしてよかった」という文章であれば、問題はなかっただろうと思う。諸外国に暮らしていたらおそらく目にすることのなかったであろう光景が、日本に暮らしたおかげで出合えることができたというメッセージであれば、これは「地域性」をアピールしていることになる。 

 それに、この場合、「日本に暮らす」人すべてが該当するものであることが明確である。国籍は問わず、日本に暮らしている人が対象となっているわけで、暮らしている期間の長短も問わず、現在暮らしている人も過去に暮らした経験のある人も同等に含んでいる。示している対象が明確である。 

 ポスターの文言は、いきなり「日本人」というところから入っているのだ。「日本で暮らす」というのは経験レベルの表現であるが、「日本人」というのは概念である。アイデンティティを含む概念である。ここに最初の曖昧さがあるわけだ。 

「日本人」というのは一つの概念である。そして、この概念にどこまでの人が含まれるかは評価する人によって異なる。つまり定義が難しいのである。仮に、「日本人の両親から生まれ、日本にずっと暮らしている人を日本人という」ということであれば、片親が外国人であるハーフの人はどうなるのかという疑問が生まれる。「血統」の観点から定義づけすると、そのように定義からはみ出してしまう人が現れてしまう。 

 そこで「国籍」という観点から定義すると、「日本国籍を有する人を日本人という」ということになる。しかし、この定義おいてもはみ出してしまう人が出てくる。日本国籍を取得している外国人居住者はどうなのか、逆に外国籍を取得して外国に居住している日本人はどちらに含めたらいいのだという問題が生じる。 

 要するに、概念レベルの話になると、グレーゾーンが生まれるわけである。だから曖昧な感じが付きまとうことになるのだ。曖昧な部分が生まれてしまうから、受け手の心が投影されやすくなるわけである。この文言は経験レベルの話にしなければならないのである。 

 

 文言に曖昧な概念が含まれているために、そしてこの概念が厳密に定義されていないがために、この文言に対してはさまざまな含みが感じられたり、個人の心的内容物が投影されたりする可能性が高くなる。 

 このポスターの文言は「日本人でよかった」というものであるが、この「日本人」にどれだけの人が含まれるのかは、先述のように、不明確である。ここでアピールされているのは、日本という「地域性」ではなく、「日本人」という「国民」であり、「人種」である。日本人という人種があるわけではないけど、「日本人」の定義に属する人たちという意味では「人種的」である。そして、この「国民」でよかった、この「人種」でよかったという意味合いがポスターには含まれている。 

 ここが僕が一番問題であると感じているところだ。ここにはある種の「選民思想」が垣間見えるような気がするのだ。「日本人でよかった」という文言は、言外に「それ以外の国民ではなくてよかった」を含んでいるのだ。それは、キリスト者は善で異教徒は悪だといった思想や、ゲルマン民族は優秀でユダヤ民族は劣等だといった思想に通じるものである。もっと言えば、「震災が東北でよかった」という思想とも同種である。 

 経験レベルで「良かった」と言う分には差別感は生まれないのだ。それは個人がいい経験をしたというだけの話になるからである。概念レベルで「良かった」と言ってしまうから、その概念に属さない人たちが入り込んでしまうのだ。 

 

 さて、この問題が複雑になるのは、ポスターの女性が中国人であるというところだ。僕の考えでは、このポスターには日本人という「選民思想」が生じてしまっているが故に、中国人女性の起用が別の問題を生み出してしまうのだ。 

 今度は主体レベルで語るのと他者レベルで語ることの相違という問題がここに混入してくるのである。 

 話を分かりやすくするために、「日本人」を「私」という個人の話に置き換えてみよう。その場合「私は私でよかった」という文言になる。 

 この文言を「私」という主体レベルで話をすると、このようになるだろう。「私は私でよかった。だって、私はこれこれこういう経験をしたから」といった形になるだろう。おそらく、これは誰をも傷つけることのない表現である。これを聴いた人も、この人はこういう経験をした自分をよいものとして感じてはるんだなあくらいで済む話である。 

 ところが、他者をここに持ち込む、他者レベルでこの話をすると次のような形になるだろう。「私は私でよかった。だって、あの人はこれこれこういう経験をしているから」と。この表現は、本人は意図していなくても、どうしても「私はあの人のような経験をしないでよかった」とか「あの人のようでなくてよかった」というニュアンスを含んでしまう。つまり、差別感が生まれてしまうのだ。 

「日本人でよかった」のポスターに中国人女性が起用されたということ、「よかった」と言う主体とは異なる他者を起用したということによって、作成者側が意図していなくても、そうした差別感、あるいは「あてつけ」感が生まれてしまうのである。僕はそう思う。 

 

 さて、このポスターを巡って、いろいろツイートされたそうであり、番組ではそのいくつかが紹介されていた。実は、僕はこちら側にも言いたいことがたくさんあるのだ。 

 ある人は「なんか怖かった」とツイートしていた。この「なんか」とか「なんとなく」というのは、無意識的に何かを感じ取っていながら、それが意識化されていない状態であることが多いので、意識化する努力をしてみることを僕はお勧めしたい。自分にとって、それの何が怖かったのかが見えてくると、自分が一つ明確になる上に、それに対する対処も考えられるようになるものである。 

 ある人は「思想を押し付けるな」と反論していた。この反論は正しいものではないのだ。と言うのは、ソクラテスの時代から、思想とは押し付けられるものなのである。押し付けられてくる思想に対して、人によってはそれを真剣に考える時期がくる。その思想について真剣に考え、共鳴したり、新しい思想を打ち立てたりして哲学は発展したのだ。だから、思想とは押し付けられるものであるということを知っておいた方がいいと思う。それに共鳴するのであれば、その思想にしっかり習熟しなくてはいけない。単に雰囲気や勢いに呑まれて賛同するようではいけないということだ。その思想に反対するのであれば、反対の主張を打ち出すために、しっかりと自分の思想を練り上げなければならない。押し付けるなという反論だけでは、どこにも進まないし、広がっていかないものである。 

 ある人は「何が問題かわからない」とツイートする。僕が思うに、わざわざツイートするということは、この人なりに問題を感じているのではないだろうか。自分が感じていることと、世間が問題として取り上げていることの間に開きがあるということなのかもしれない。そんな場合は、一旦、世間の雑音を遮断して、自分が感じていることを見つめ直してみるとよい、と僕は考える。そして、自分が感じている問題点に立脚すれば、他の人たちが問題として取り上げていることに惑わされる度合いが少なくなるだろうし、他の人の見解を聞き入れる余裕も生まれてくるのではないだろうか。まずは自分自身の足場、立脚点を明確にしてみることをお勧めしたいと思う。 

 

 ああ。くだらん。こんなことを書いて、一体、誰が得をするのだろう。まだまだ考えていた部分もあるのだけど、もういいや。今日のブログはここまで。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

関連記事

PAGE TOP