4月8日:コロナ・ジェノサイド~死を阻むもの

4月8日(水):コロナ・ジェノサイド(19)~死を阻むもの

 

 僕にとって、コロナのようなウイルスは、生を阻むものではなく、死を阻むものである。それは生を奪うものではなく、死を妨害するものである。僕と僕の死の間に立ちはだかる障壁である。それが障壁であるから、それを打破したいとも思うのだ。そして、もし、それが生を奪うものであれば、僕は恐ろしくなってとても立ち向かっていけないだろうと思う。

 生命あるものはいつか死ぬ。生命が自然現象であるように、死もまた自然現象なのだ。コロナのような病原菌は、生を破壊するのではなく、死の自然現象を破壊するのだ。僕は僕の生命や人生を守るのではなく、僕にとっての自然現象を守りたいと思うのである。自然の生命を守りたいし、同じように自然な死をも守りたいと願っている。

 

 一部の人たち(いや、大部分の人たちであると思うが)は、死を回避しようとする。死の否認がある。この人たちは自然的生命を生きているのではなく、機械的生命を生きていると言ってもよさそうに思う。

 そして、自分の死に近づくと、強烈な不安に襲われ、居ても立ってもいられなくなり、パニックになったりする。もしくは不安を躁的に防衛して狂騒的になったりする。彼らにとって死はもはや自然のことではなくなっているのだと僕は思う。

 死が自然なことでなくなっているということは、この人たちが死の問題に取り組む必要はない。むしろ、死が問題になることすらなかっただろう。その代わり、この人たちにとっては生の方が問題になることが多いかもしれない。

 そして、いきなり死の観念に直面してしまうと、この人たちは脆くも崩れ落ちてしまうのだろう。自然ではないものが降りかかってきたかのように体験されるのではないかと思う。本当は自分自身が自然ではなくなっていたのである。僕はそう考えている。

 

 人間、生まれてくる時は独りだ。同じように死ぬときも独りだ。生死はきわめて個人的な状況である。

 孤独死は人間本来の死に方だと思っている。社会はそれを悪のようにとらえるのだけれど、本当は社会の方が間違っているのだ。社会が人間の自然を見失っているのかもしれない。

 僕は孤独死を願う。しかし、コロナに感染して、病院か隔離施設に収容されてしまうかもしれないし、その時に医療崩壊が起きていたら、限りなく野垂れ死にに等しくなる。周りに多くの人がいながら放置され、さりとて独りにもさせてもらえない。

 こんな死に方をするのがイヤだから、僕はコロナに感染しないように気を付ける。コロナは僕の死を阻むのだ。

 

 ところで、生と死は対立概念ではない。補償的な概念である。僕が生きているとは僕が死んでいることであり、僕が死ぬとは僕が生きることである。いつか、僕のそういう感覚を言葉にできればと思っている。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

関連記事

PAGE TOP