4月5日(月):コロナ禍を生きる~世界の目
コロナネタで書くのも面倒なんだけれど、やはり気になるテーマなので、つい、書いてしまう。コロナで日本は大打撃を被るだろう。世界が打撃を受けているけれど、日本の受ける打撃は莫大なものになると僕は思う。日本がどんなふうに斜陽していくか見届けてみたい気持ちもあるが、その前に僕自身がコロナで死んでしまう可能性だってかなりある。生きている限り日本がどうなるか見ていこうとも思う。
ワクチンは、批判や問題もあるけれど、やはり有効であるようだ。日本はいまだに1%も満たない接種率だ。世界でもかなり下位である。
僕が思うに、接種者の数が大事なのだ。優先順位よりも数が重要だと思うのだ。医療関係者、高齢者、持病のある人、この順番に拘ると接種に時間がかかってしまうかもしれない。むしろ、医療関係者にこれだけ、高齢者にこれだけというように確保して、その都度、それ以外の人たちに先着順で接種していけばいいとも思うのだ。
働き盛りの人たちに接種すると、それだけ経済の回復も早くなるだろう。それに接種者が仮に50%にでも達したとしたら、それだけで感染の波が低くなるだろうと思う。波が低くなればそれだけ医療従事者も助かるだろうにと思うのだ。ともかく、接種者の数が増えなければならない、それが優先であると僕は考えている。もっとも、現実にはさまざまな制約があるし、そもそもの最初からワクチンが足りないのだから仕方がないと言えば仕方がないか。
ワクチン交渉は目も当てられない状態だ。これもいちいち書く気がしないほど惨憺たるものだ。僕がワクチンを売る側だったら、決して日本には売らない。それだけは確かだ。
ガースー首相もそろそろ引退がよろしいのではないかと思う。コロナ禍で心神耗弱しているのか、無表情、無感情が前よりもひどくなった感じがしている。目がうつろな感じも度を増したような気がする。分裂病じゃないかという気もしている。もっとも、これは僕の個人的な見解だ。それに、だんだんろれつが悪くなったというのか、滑舌が悪くなったというのか、そんな感じがして、脳梗塞やなんかの前兆が出ているんじゃないかという気もしないではない。ドクターストップをかけた方がいいのじゃないかとさえ思えてくる。
どっちにしても、国は少しも良くなっていない。
国だけでなく、国民もだ。コロナ疲れであるとか、あるいは気の緩みとか言われるけれど、疲れでも緩みでもないかもしれない。
今日も職場の前の道路で大声出しているのがおって、ウンザリした。喚いたり、騒いだり、大声で歌ったり、いろんなのがおる。これはコロナ疲れのせいか、気の緩みのせいか、もしかするとパニックであるかもしれない。パニックに陥っている人もけっこう多いと僕は思っている。精神を保てなくなる人が出てきてもおかしくない状況なのだ。
それで、この期に及んでもまだオリンピックとやらを開催するつもりである。大阪は聖火リレーの中止を決めたのだったか検討しているのだったか、いずれにしても大阪は走らないだろう。
オリンピックをやるということは、必然的に世界の目が日本に集まることになる。自国の選手を送る国の状況が気になるのは当然である。それだけ注目を浴びるということは、議員の下手な言動は、国内だけの話では済まなくなり、海外にまで速やかに伝わってしまうことを意味するわけだ。
一瓶で六回分のワクチンが、日本の注射器では五回分しか取れないと遅ればせながら判明した時、一回分は廃棄するしかないなどといったあの発言もEU諸国に伝わっているそうだ。ただでさえワクチンが不足しているのに廃棄するとは何事かと、そりゃ批判も飛び出すものだ。せっかく製造して、善意で日本の輸出分も確保しているのに、それで廃棄されるのなら売る方もバカらしくなって、日本に売る気が失せるかもしれない。
まあ、それはともかくとして、日本にいると分からないけれど、大臣や議員の言動が思いのほか海外に伝わっているものであると、そう認識しておく方がいい。オリンピックのおかげで(かどうかは本当は分からないんだけれど)、世界の目が日本に向くようになっていると覚悟しておかなければならない。
国民一人一人の言動もまた然りである。そう思って日々、感染対策しながら生活する方がよろしかろうと思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)