4月5日:コロナ・ジェノサイド~「感染させたくない」

4月5日(日):コロナ・ジェノサイド(16)~「感染させたくない」

 

 一世帯につきマスク2枚を配布する。僕はこれほど愚策はないと思っている。それにかかる費用が200億円以上とのことだ。政府からすれば200億円は大金ではないかもしれない。でも、中小企業、個人事業、個人商店なんかに100万円ずつ給付すれば、2万もの商店、企業に行き渡るのだ。どうしてそっちをしないのかと思ってしまう。

 それで一世帯に布マスクが2枚である。僕のところに届いたら一枚は母に、もう一枚は父に渡そう。僕は無しだ。僕が国民に含まれていなくても構わない。国民である父母に手渡したい。

 2枚なんて何の足しにもならない。布マスクは効果がないのだ。網目が荒いのでウイルスが普通に出入りできるものである。マスクの効用に関しては後で取り上げよう。

 それで布マスクは洗って再利用できるという利点があるとのこと。それなら洗い替えの分も配布した方がいい。要するに、朝にマスクを着けて出勤し、夜に帰宅すると、明朝までにそのマスクを洗って乾かさなければならないということなのだ。替えが無いということは、国民にそういうことをしなさいという意味なんだろう。

 何度も繰り返し洗って、一枚の布マスクがどれだけもつのだろう。だんだんボロボロになっていくだろう。何回くらいの洗濯に耐えられるのか不明である。まさか何か月もそれを使用しなさいということだろうか。

 僕の個人的見解では、マスクを着用後に洗濯して、一週間くらいは干しておきたい。完全に布地の部分の菌が消滅するまで干しておきたいのである。だから、せめて一週間分は欲しいところである。

 それでマスクのことなんだけれど、かつては感染しないようにマスクを着用しようという意味が強かった。実際には、入ってくる方は防げないけれど、出す方は防げるらしいので、今度は感染拡大防止のためにマスクを着用しようという意味が前面に打ち出された。要するに咳エチケットということである。

 今日、あるテレビ番組で医師が言っていたところでは、手(ウイルスが付着しやすい部分)が口(ウイルスが入り込みやすい部分)に触れないためにマスクをしようとのこと。もはや感染も感染拡大も言っていないんだな。

 

 ところで、僕は精神分析もよく勉強した。正統派の分析家ではないけれど、精神分析的な見解が僕の思考の根底にある。

 その精神分析であるが、これはとかく評判の悪い理論である。精神分析的にこう考えられるということを言ったとすると、轟々たる批判を招くこともある。精神分析的に正しい理論でも、世間一般の目からすればかなり異常なものに見えるわけだ。

 もし、ここに「人に感染させたくない」と思ってマスクを着用している人があるとしよう。この人の無意識的動機は「人に感染させたい」である場合もある。つまり反動形成ということなんだけれど、無意識的な敵意が変形したものである。

 もちろん、マスクを着用する人の皆が皆そういう無意識的敵意を有してるとは言わない。しかし、「人に感染させたくない」をやたらと強調するとかアピールするとかいう人の場合、僕は無意識的敵意の存在を仮定する。

 また、感染者がそれを言う場合、「感染させたい」という無意識的動機の可能性は非感染者よりも高いと思う。と言うのは、どうして自分だけが感染して、生命の危機に晒されなければならないのだという思いが生まれやすくなるからである。助かった人を恨みたくなるわけだ。でも、その恨みを表に出すわけにはいかないので、それは形を変えることになる。

 しかし、こうした見解は一般化できないものである。人に感染させたくないと言う人に向かって、「嘘つけ、ホントは人に感染させたくてしょうがないんだろう」などと言ってみたところで、相手には通じないものである。それに、無意識的動機は一つとも限らないし、それは意識的動機と協働しているものである。

  それでは、純粋に「人に感染させたくない」という動機でマスクを着用している人と、無意識的には「人に感染させたい」という動機でマスクを着用している人と、両者の違いはどこで現れるか、僕の考えるところのものを述べよう。

 まず、無意識的敵意を抱えている方は、マスク着用を負担に感じるということが挙げられそうだ。本当はマスクなんて着用したくないのだ、それでもマスクをしなければならないということになっているから、当然、この行為は当人には苦しいものになるだろうし、マスク着用が習慣になることもないだろう。

 次に、無意識的敵意を抱えている方は、土壇場で「ウッカリ」なことをやらかすだろうと思う。例えば、人が集まっている場所で「ウッカリ」マスクを外したり、あるいは人が集まる場に出ることになっているその日に限って「ウッカリ」マスクを忘れてしまうとか、そういうことをやらかしてしまう可能性が高いだろうと思う。

 そして、無意識的敵意を抱えている方は、マスクを着用していない人に対して、過度に敏感になり、過剰な攻撃をするだろうと思う。つまり、その場にそぐわないような過剰反応を示すだろうと思う。

 

 さて、書くことにも疲れてきた。早く結論に至ろう。

 無意識的敵意は、もし自分の中にそれがあるなら、自覚されている方がいい。意識化されている方がいい。僕はそう思う、意識化されていれば、統制がより可能になる。

 しかし、だからと言って、ウイルスをばらまいてやると言って飲みに行った男性が正しいとは言わない。これは無意識的敵意の虜になっているわけだ。つまり、エス衝動に自我・超自我連合が敗北しているわけであり、決して精神的に健康な人の行為ではないのである。

 自分自身に対しても周囲に対しても、無意識的な敵意を少しも持たない人は、マスク着用に関してこう言うだろうと思う。「そうするしかないからそうするのだ」と。これが精神分析で言うところの、フロイトが言うところの、「断念」であると僕は考えている。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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