4月29日(水):コロナ・ジェノサイド(36)~a la carte
(消えた100億)
アベノマスクの予算は200億円だった。しかし、実際にメーカーに支払われたのは90億円ほどである。100億円ほどが消えたことになる。
200億円というのは予算だ。200億円の予算を組んで、実際に作ったところ180億円で収まりましたというのなら分かる。差額の20億円は国庫に戻せばいいだけだし、概ね最初の予算通りになったと言える。
90億円で収まるのなら、最初から予算を100億円で組んでおけばよかったのだ。もっとも、90億円のマスクは不評たらたらであるが、そこは別の話なので置いておこう。90億円でできるところのものを200億円の予算を組むということは、そもそもの試算がおかしいということになる。どういう計算をして200億円になったのだろう。
当然、消えた100億円は誰かが着服しているという疑いが濃厚になる。これは今後追求されていくのかもしれないが、今はそんなことをしている場合か。
(時間的猶予はない)
経済が危機である。6月には多くの中小企業がバタバタと倒産するのではないかと言われている。そして、現に倒産したところや廃業したところも現れている。1か月ほどしか時間がないのである。国民一人につき10万円給付も実現化していないし、企業に対する補償や助成金の話も全然追い付いていないのが現状だ。
医療はすでに崩壊が起きている。経済もいずれは崩壊する。もはや時間的な猶予はないのだ。それなのに政府は何か目論んでいるのだ。90億円の予算を200億円と上乗せしているのは、それなりに何かの目論見があってのことだと僕は睨んでいる。
当然、人命はこうした目論見の犠牲になる。国民はそういう企みに加担したくないのだが、有無を言わせずに加担させられてしまうのである。国民にはそういう自由は認められていないのだ。もはや国民が政治参与できない政党なのだ。
(感染拡大)
コロナの方は相変わらず感染者数が増加したというニュースを聞く。ある意味では望ましいことなのだ。感染者が増えてるということは検査がそれだけなされているということであるからだ。
検査をすると医療崩壊が起きると専門家たちは言っていた。しかし、それは過去の情報に基づいているのだ。軽症でも入院しなければならないという法律があったためである。その法律に従えば、検査をして軽症者を発見することは病院のパンクにつながっていただろう。今は状況が違うのだ。いつまでその情報にしがみついているのだろうか。
検査を徹底した方が医療崩壊を防げるのである。軽症者を自宅や宿泊施設で治療し、病院は重症者だけに限るのである。そして、軽症者を重症化させないということが病院を救うのである。検査を徹底して軽症者の発見に努めなければならないわけである。
アベのやることすべてアベコベである。
(マスクがドラッグストアに売られない理由)
ドラッグストア等では相変わらずマスクは品切れ状態である。一方で、それ以外のお店がマスクを販売するようになった。これは転売に当たらないそうである。メーカーから直接仕入れたマスクを販売しているからである。
では、ドラッグストアでもマスクを仕入れて販売すればいいようなものだ。しかし、販売を渋る事情がある。
マスクを製造するのに材料が高騰しているそうだ。原価が高くなり、販売するとなるとどうしても以前よりも値上がりしてしまう。
それならそうと、原材料の高騰により、製造コストがかかるためメーカー希望販売価格がこの値段になり、それに基づいて販売していますと明記しておけばいいのだ。買う側もある程度は事情を理解してくれるだろう。
しかしながら、ドラッグストアが恐れているのは次のような事態である。以前は一箱2000円(値段は仮である)で売ってたのに、今は5000円で販売している、ボッタクリだとか、不当な値上げだとか、営利を貪っているとか、人の弱みにつけこんだ悪徳商法だとか、そんな声が上がる事態である。要するに風評被害を恐れているわけだ。
政治家や専門家の次にタチが悪いのがこういう連中である。軽症者の宿泊施設が増えないのもまたこういう連中を意識してのことであるそうだ。誰もが簡単にモノが言える時代だからそんなことも起きるのだが、それだけに言う前に考えるだけの知恵を僕たちは持たないといけない。
(無知)
手話通訳者がマスクをしていないと文句を言った人があるそうだ。これも無知だ。手話とは、もし正確に言うならば「手口話」なのである。基本的には口の動きで伝えているのである。だから、口の動きと同時に見える位置で手を動かしているわけだ。
手話通訳者がテレビでは別枠で画面に映ることがある。手だけでやっていることなら、上半身を映さなくていいのである。手だけをアップで映せばいいのである。手と口の動きの両方で伝えるから上半身が映るのだ。
大阪府は休業要請に応じないパチンコ店の実名公表した。大阪府知事は法律に基づいてそうしたと表明したが、処罰的な行為だと反論する人もあるようだ。
しかし、その反論はおかしい。法律には多かれ少なかれサンクションの要素が含まれている。むしろ、それを欠く法律というのは意味がないのである。サンクションというのは、言わば「制裁」のことなんだけれど、「制裁」以上の意味合いを含むのでそのままサンクションと言うことも多い。
いずれにしても、実名公表には処罰の要素があり、あって当然なのだ。サンクションが含まれているのが当然のことなのだ。
ところが、そのサンクションは機能していない。通常、処罰を受けたお店は痛手を受けるのであるが、そのお店に行くととばっちりを食うかもしれないと利用客の方も控えるのである。あるいは、実名公表されてしまったから、ちょっと顔を出すのを止めておこう、店に迷惑をかけてしまうかもしれない、と店のことを配慮して客側も自制するものである。
そうしたサンクションの機能は働かず、それどころかサンクションとしての意味がなくなっている。店名公表は店の宣伝になり、パチンコファンはまだあの店は開いていると知り、その店に殺到する。店名公表が逆効果になったわけだ。
テレビでその模様を見た。パチンコ店に来店した群衆が僕にはゾンビに見える。人肉にゾンビが集まるように、パチンコ店に人が集まるのだ。もはや主体を喪失しているのである。主体的選択がなされていないのだ。意志機能が働いていない人たちであるように僕には見えてしまう。
開いているから行っただけだ。彼らはこういうことを言う。店名公表された店に行って、どういうことになるか、近辺の人からどういう目で見られることになるか、そういうことを反省しないのである。パチンコ依存の人と何人かお会いしたこともあるけれど、僕の印象ではシュナイダーの「発揚情性型精神病質」に近い人が多かった気がしている。そのタイプのうちの「軽佻性の発揚情性型精神病質」的な人たちなのかなと思ってしまった。
(日本はコロナに負ける)
政治家や専門家といった上の人たちも、国民である下々の人たちも、こんなことをやっているのだから、日本はコロナに勝てる見込みがなさそうである。もちろん、僕の個人的な見解である。
コロナが収束しても、その後の経済不況を克服できても、やはり日本はコロナには勝てなかったのだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)