4月24日:コロナ・ジェノサイド~気晴らし派と服従派

4月24日(金):コロナ・ジェノサイド(32)~気晴らし派と服従派

 

 人間が空虚になればなるほど、その人は独りには耐えられなくなるし、自分を見てしまいそうになる瞬間を何が何でも回避したがるようになる。そうした回避の一つの現象が「気晴らし」である。この「気晴らし」には、レジャーだけでなく、「戦争」をも含む。誹謗中傷の類も「気晴らし」に属するものである。

 もう一つの現象がある。それは「服従」である。自分が空虚であるから他人に属しているもので自分の空虚を埋めなければならないというわけであり、それは他者に服従するという形で顕現化する。

 自分が空っぽに感じられているとか、自分が「無い」というように体験されている人は、概ねその二つの防衛策を取る。気晴らしか服従かである。

 

 僕もできるだけ外出を控えている。これは政府の要請だからそうしているのではなく、コロナによる感染死は僕の望む死と隔たっているためである。僕は僕の望むような死を迎えるために、感染による死を選ばないだけである。

 僕が感染したら、きっと重症化して、死に至るだろうと思う。感染しないためには外出を控えた方が良いというのだからそうするまでだ。僕は感染症の専門家ではないので、そこは専門家の言葉に耳を傾ける。

 今日も終日家にいた。ずっと本を読むなり、テレビなんかを見て過ごした。あと、自室の整理なんかをして過ごした。確かに、家にずっと留まるのはキツイと感じる瞬間もあった。ちょっとくらい散歩でもしてこようかと思った場面もある。

 散歩は禁止されているわけでもないけれど、僕の中では不要不急の外出に当たる。だから散歩も僕は禁じている。自分の決めたことを守っただけである。本当はジョギングとか屋外トレーニングも僕は反対である。スーパーやコンビニで買い物をするときも、店内滞在時間は5分以内と決めている。買うものを決めておいて、入店すると迷わずそれをかごに入れ、レジに持っていく。ある程度値段の分かっているものであれば、お釣りの要らないように準備をしておく。

 政府の要請に応じているのではなく、専門家の言うことを守り、自分のルールを設定して実行している。僕の中では「服従」の感覚は無い。

 

 多くの人が二分するかと思う。要するに、「気晴らし」派と「服従」派だ。前者は昨日取り上げたので、今日は後者を取り上げているわけだ。

 服従派の言動は、政府がそうしろというのだからそうしよう、という思考になる。上がやれと言っているのだからそれをやろう、行動の動機がそれだけなのだ。そこに主体はない。主体は空虚であるからだ。

 気晴らし派は政府から目の敵にされるが、服従派は政府から歓迎される。しかし、両者は同じ「病理」に基づいているわけだ。「病理」というのが言い過ぎなら「心理」と言い換えても良い、いずれにしても両者にそれほど違いはない。

 共通して言えることは、自分自身に関して何も考えなくて済むということだ。気晴らし派は何も考えなくていいのである。自分のやりたいと思うことをやればいいということになるわけだから。同じように服従派も何も考えなくていいのである。考えるのは他者であるからだ。他者の考えに従えばいいということになるわけである。

 

 一般に人は次のような分け方をする。要請を守る人と守らない人と、こういう分け方をする。そして守らない人にはより厳しい処置を取ろうと目論む。守る人にはなんらかの補償を取ろうとする。それは気晴らし派と服従派に対応する。しかし、僕の見解ではこの両者は一つなのだ。

 自分が空虚で要請を守るか破るかしている人たちと、自分の主体で要請を守るか破るかしている人たちと、この二分があるだけである。言い換えれば、要請を守ろうと破ろうと自分が無くなっている人、もしくは自分自身でなくなっている人といったクループがあり、要請を守ろうと破ろうと自分自身であろうとしている人、もしくは自分自身になろうとしている人といったグループがあるというわけだ。以下の記述は前者のグループに関するものだと思ってほしい。

 

 自分の意志で要請を守らないというのは分かりにくいかもしれない。例えば、営業自粛要請を受けているのに営業している店があるとしよう。そこの店主は大抵こんなことを言う。営業自粛したら経費が支払えず、従業員にも給料を払えないと。だから営業せざるを得ないのだということを言う。つまり、営業自粛要請を守らずに営業するのは自分の意志ではなく、外的な状況のためであると言っているわけだが、これは服従の心理である。この店主は服従派に属するわけだ。

 一見すると自己決定しているかのように見えるかもしれないが、よく見ると自己決定している部分は、皆無とは言わないまでも、限りなく少ない。店主は苦渋の選択とか決断とか言うかもしれないけれど、本当は何も決断していないのである。

 気晴らし派も服従派も、自分自身を決断するだけの自己が不確実なのだ。自己決定できないのだ。ちょっとくらいいいだろうというのも、言われた通りのことをしていようというのも、どちらも自己喪失の表れなのである。僕はそう考えている。

 

 最後に、服従派の怖いところは、服従を強いる側、つまり政府ということであるが、この政府がどんな政府であれ服従してしまうということだ。それが間違った政策であれ、悪い政治決定であれ、速やかにそれに服従し、容易にそれに順応してしまうことである。

 今の政権が8年近く維持できているのは、ひとえに、服従派の人々のおかげであると僕は考えている。そして、これは非常に恐ろしいことなのである。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

関連記事

PAGE TOP