4月21日(日):ギャンブル依存って何依存?
深夜勤務明け。連日深夜勤務60日達成だ。2月21日から一日も休まずに深夜勤務やってる。この記録はさらに更新中だ。
給料をもらうっていうのは本当にラクだ。時給制でも充分だ。自営業でゼロから稼ぐのよりはるかにラクに感じられている。なんだか、安楽な方向に流されているのかも、という気にもなる。まあ、それも良しとしておこう。
勤務後は帰宅して、4時間ほど寝る。そこから今日の開始だ。高槻に出て、若干室内のことをこなして、論文を読む。その最中にクライアントがお見えになられた。
面接を一件、無難にこなす。クライアントが大きく揺れ動ないようにしてお帰りいただくのが一番いい。効果があるとかないとかいう観点よりも、心的に大きな動揺をもたらしたかもたらかなかったかという観点の方が大事である。一般の人は前者に注目して、後者は無視される、又はそういう観点が欠落しているのであるが、僕にとっては後者の方が重要である。一回の面接でクライアントに影響を与えすぎないようにしたい。
面接後にこのブログを書いている。さて、今日は何を書こう。
あまり身近な人のことを書くわけにもいかないし、僕の個人的な体験を綴る気力もない。日々体験していることは多々あれど、書き残しておく気にならない。何か世間的な話題でもと思うのだけれど、そういう情報に疎くなっているせいか、何も話題が思い浮かばない。
オータニが打ったとか打たんかったとか、記録に達するとかなんとか、そんなニュースばかりが頭にこびりついている。そんな話は面白くもないし、興味も湧かない。オータニが凄いなんて言われても、どこがどう凄いのか僕にはチンプンカンプンだ。
そうだ、通訳の人の方が僕には興味津々だ。オータニの口座から現金を盗み出してギャンブルに費やしたとかいう事件だ。彼はギャンブル依存だと自認しているそうだ。
ところで、僕はギャンブル依存ってものが分からない。正直、彼らが何に依存しているのかさえ僕には分からない。ギャンブル依存って言うくらいだからギャンブルに依存しているのだろう、一般の人はそう考えるのではないかな。でも、実際にギャンブル依存とされる人と会ってみると、コトはそう簡単ではないのが見えてくる。
通訳者がやったのはスポーツ賭博で、しかも違法のやつだそうだ。日本でも禁止されている類のギャンブルだ。これが禁止されているのは、その掛け金が暴力団に流れるからであり、暴力団の資金源になっているからだ。アメリカでも事情は同じなのではないかな。そうなると、通訳者の犯行とはいえ、オータニも無関係ではなくなってくる。オータニ選手は被害者の立場であり、法的には責任がないことになるが、彼の資産が暴力団(マフィアとか言った方がいいのかな)に流れたのだとすれば、彼は倫理的な責任を負わなければならなくなると思う。テレビのワイドショーなんかでそのことを指摘した人を僕は知らない。
そう、僕はそういう組織の存在を信じている。通訳者はかなり巧妙な手口でオータニの口座から横領していたのだ。あの通訳者が単独でそんな手口を思いついたとも思えないのだ。要するに、その道のプロみたいなのが背後に潜んでいるように思われてくるわけだ。狙いはオータニの資産であって、通訳者は利用され、カモにされているだけではないだろうか。
そのように仮定すると、僕はそこにギャンブル依存の本質を見る思いがする。ギャンブル依存はカモにされたり利用されたりする羽目に陥るのである。ギャンブル依存というよりも、カモ依存と言った方が的確なのではないかとさえ僕は思っている。彼らはカモにされること、利用されることに馴染んでしまっていて、そうされることに依存しているかのような印象を僕は受けてしまうのである。
あの通訳者も利用され、もう捨て駒にされたのだろう。いずれにしても、罪は通訳者一人に負わされることになり、彼は人生を踏み誤ったことになるわけだ。刑に服し、人生をやり直すとしても、ゼロからの再出発ではなく、かなりマイナスからのスタートになることを覚悟しておいた方がいいし、その再出発のスタートさえ切ることなく終わるかもしれない。
このことは、通訳者だけでなく、その他のギャンブル依存者たちにも同じである。僕はそう考えている。ざっくばらんに言えば、ギャンブル依存とされる人たちは考えが甘いのである。ギャンブル依存から抜け出して、まっとうな人生を踏み出すまで、どれだけ苦難を経験しなければならなくなるのか、ギャンブル依存者には想像もつかないことだろう。
まあ、僕はもうギャンブル依存の人たちとお会いすることはないので、こんなこと言ってもしょうがないか。
さて、今日のブログはこれくらいにしておこうか。活字依存症も自力で活字から離れることができるうちが幸せというものだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)