4月20日(木):ミステリバカにクスリなし~『死者のあやまち』 

4月20日(木):ミステリバカにクスリなし~『死者のあやまち』 

 

 処分する前に読んでおこうという「読み捨て」キャンペーンの一環として、アガサ・クリスティの『死者のあやまち』を選んだ。本書を読んでもう20年以上になるか。内容も覚えていない。 

 巻末のリストを見ると、クリスティの長編としては48作目に当たる。名作とか傑作とか、あるいはベスト○○などで名が挙がるような作品ではないけれど、熟練でないと書けない作品であるとも思う。 

 

 ナス屋敷の遊園会の犯人捜しゲームの催しに、正解者に賞品を授与する役を引き受けてしまったポアロ。ゲームのストーリーを考えた女流作家オリヴァに頼まれてのことだった。一方的に役を押し付けられたポアロであったが、オリヴァは何か不吉なことが起きると思っているようで、その捜査も兼ねてポアロ引き受けたのであった。 

 ゲーム当日、死体役を引き受けた村の女の子が本当に何者かによって殺されてしまう。14歳の、どことなく知恵の足りない無垢な少女である。誰からも恨みをかうような筋合いのない女の子を、一体だれが何の目的で殺したのだろうか。 

 その事件の発生した頃、屋敷の主人ジョージ・スタッブス卿の妻であるハティが行方不明になる。この日、ハティの遠い親戚にあたるエティエンヌが遊びに来ることになっていた。ハティはこの親類を恐れており、彼は人殺しであるとさえ言っていたのである。エティエンヌが姿を現すころに、女の子が殺され、ハティの姿が見えなくなったのである。 

 

 物語の3分の1まで事件が起きない。それまでに主要な人物が描かれ、彼らの背景や思惑、感情などが丹念に書き込まれていく。そこはクリスティの他の作品でも見られる傾向であるので良しとしよう。 

 しかしながら、事件が起きても警察の捜査が一向に捗らない。捜査は難航し、進展しないで、かなりモタついてくる。そのため中盤はかなりダレる。そこは本作の難点だ。 

 それでも舞台劇のように登場人物が入れ替わり立ち代わり読者の前に姿を現し、ポワロと言葉を交わす。クリスティはそういうところが上手だ。人が入れ替わり登場しても、違和感を覚えないのである。 

 従って、捜査の方は渋滞するも、人の動きと場面は歯切れよく展開する。ポアロの会話も僕には魅力的で、ポアロは時々カウンセラーのような応答をするなと思った。そういうところに注意が向いてしまうのは僕の職業病だろう。これらの会話から、何が手掛かりになるのか、つかめないところも、一方では面白く、他方では退屈に感じられてしまう。 

 16章から20章にかけて、捜査が進展し、事件が一挙に解決されていく。中盤がダレていただけに、ここで畳みかけてくるかのように捜査が流れ、展開していくところは読んでいて心地いい。 

 真相を知ると「ああ、そうだったのか」と思う箇所がいくつも思い当たる。一人二役、二人一役なども取り入れたトリックは秀逸だと思う。 

 何よりも、真相を知ると、これまで読んできたストーリーがまったく趣の異なるものになっていく、全く違った印象へガラリと代わる感じがある。『赤毛のレドメイン家』のようだとも思った。 

 

 それとは別に面白いのは女流推理小説家が登場していることだ。オリヴァはこんなことを言っている。 

 「私の創作方法だなんて、いったいどんなことが喋れて?(中略)どうして作家の職業の秘密なんかにみんな関心があるのか、あたしにはさっぱりわからないわ。作家の仕事は書くことであって、お喋りなんかじゃないと、あたしは思っているのよ」(p265) 

 クリスティは緘黙な人だったようで、だからあまり干渉されるのも好まなかっただろうと思う。ファンはどうやったらあんな作品が書けるのか、その秘密を知りたいと思うのだろう。そうして創作の秘密を知りたがる人たちにクリスティも困らされた経験があるのかもしれない、それを自分の口から言えないので、登場人物の口を借りてぼやいたのかな、などと思ってしまった。 

 

 さて、本書は最後まで読むと確かに面白い。が、中盤のダレる感じがちょっと難点だ。でも、最後の面白さに比べたらそれも許せるか。僕の評価は4つ星にしておこう。 

 

<テキスト> 

 『死者のあやまち』(Dead Man’s Folly)アガサ・クリスティ(1956年) 

 田村隆一訳 早川ミステリ文庫 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

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