4月2日(木):コロナ・ジェノサイド(14)~欠乏国日本
コロナの影響は相変わらずだ。薬の開発もされているというが、実感としては何も前に進んでいないような感じがしている。
アビガンという薬が効果的であるとのこと。中国ではすでにそれが証明されている。日本でもどんどん使用すればいいのにと思ってしまう。
このアビガンという薬、日本で開発されたものだそうだ。しかし、それを日本国内で使用するとなると、また議論を重ね、検証してといった手続きを踏まなければならない。中国ですでに検証済みであるにも関わらずである。
そして、日本で開発された薬なのに、日本で備蓄が足りていないそうだ。それでいて、中国を救うためにかなりの量を輸出したらしい。自国の開発品が自国民のために活用されないのだから、この国は救いようがない。
アビガンの備蓄が200万錠あるという。これはまったく足りていないのである。仮に一日3錠服用するものだとしよう。それを二週間服用し続けるとすると、42錠だ。一人40錠を要するとしよう。200万錠ということは5万人分ということだ。1億3000万もの国民に対して5万人分しか用意されていないということである。圧倒的に数が少ないというわけだ。もっとも、どれくらいの期間、どれくらいの量を服用する薬なのかが僕にはわかっていないので、あくまでも僕の素人の憶測に過ぎないが。
アビガンもそうなんだけれど、流行病に関するものはとかく生産を渋るのである。医薬品もそうだし、その他の医療器具なんかでもそうであるらしい。生産を渋るのは、それが流行している間しか売れないからである。売れる見込みが少ないので過剰に生産すると在庫過剰の赤字になるという理屈だ。
それが日本の制度なのだ。本当に必要なものが作れないのだ。売れるということ、利益を生み出すということにしか価値が置かれていないのだ。
マスクなんかもそうだ。僕はマスクなんてものは日本でバンバン作っているものだと思っていた。ところが8割が輸入品であるとのこと。マスクすら自国で作れない国なのだ。
日本は先進国であるとか、技術国であるとか、そういう驕りは一切捨てなければならない。発展途上国以下であることを自覚しなくてはいけない。僕はそう思う。
今朝のワイドショーで観たけど、沖縄の石垣島に観光客が殺到しているという。石垣島が感染者ゼロなのは、検査体制が整っていないということもあるけれど、人の動きがあまりないからである。僕はそう思う。
感染者ゼロだから安心なのではない。本質が分かっていないのである。安全なところが安全でなくなるのである。人の移動がもっとも悪いわけなのだ。
会社や学校が休みになる。これも移動を制限するというのがその本質にある理屈である。休みだからといって遊んでいいわけではないのだ。
確かに僕も移動する。あまり自粛はしていない。それでもこの2か月は京都の実家と高槻の職場を往復するだけだ。だいたい20キロくらいの距離だ。それ以上の距離の移動は一切していない。梅田あたりに行きたいと思うこともあったけれど、それは控えた。旅行なんてご法度である。
では、このご時世に観光客になるというのは、どういうことであるか。何が個人に欠損しているのかということであるが、それは自我機能である。
自我は現実検討する機能がある。現実を検討して、衝動や禁止に対して調整して現実に適応する機能である。この機能が欠乏しているのだ。僕にはそのように見える。
では、自我の機能が欠乏するとはどういうことであるか。これは循環になるのだけれど、自我は現実に対処していく中で成長するものである。自我が成長すれば対処できる現実場面が増え、それがまた自我の成長を促していくのだ。欠乏するとは、その逆の循環が生まれているということである。
自我は現実原則に従う。エス(とフロイトが呼ぶ領域)は快感原則に従う。超自我(上位自我)は禁止などを司る。遊びに行きたいというのはエス衝動である。それで遊びに行くとすれば、自我はエスに服従していることになる。自我が機能していないからエスの言いなりになってしまうわけだ。
精神分析の心的装置論は実に便利である。人の行動を理解するうえでけっこう有益である。
自粛が求められているのに遊びに行きたい衝動に駆られて遊びに行くとすれば、その人の自我はエスにその座を譲り渡しているのである。
もし、外出自粛しなければならないからということで、一歩も外に出ず、家の中で餓死している人があるとすれば、その人の自我は超自我にその座を譲り渡しているのである。
自粛要請されている中で旅行するなんてけしからん、そんな奴は死刑にしてしまえという人がいるとすれば、その人の自我は超自我とエス連合に圧倒されているのだ。超自我の禁止とエスの快楽(この場合サディズム的な快楽ということになる)が協力して自我を押しやっているわけだ。
同じように、私は外出禁止要請が出ているにもかかわらず遊びに行ってしまいました、どうかこの私を罰してくださいと自ら訴える人がいるとすれば、それもやはり超自我とエスが手を組んで自我を押しのけているのだ。この場合のエス衝動はマゾヒズム的快楽となっているわけだ。
政府は国民の理性を信用しようとしているようだ。もちろん、これはかなりいい表現をしているつもりである。僕はまったく信用していないが。それはそれとして、理性を司る自我が欠乏している人にこんなことを言っても無意味である。
もっとも、政府の人たちも自我が欠乏しているのである。自我が機能していないのである。こんな話を続けていると終わりがなくなるので、今日はここまでにしよう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)