4月18日(水):夕飯拒否の夜
夜、Yさんと会う。僕は空腹を感じていた。そこで二人してミスタードーナツに入る。そこの店員の不手際に僕は頭にきて、食べるのを拒否した。
その店員の不手際だけでなく、失礼もあったのだけど、僕はそれは気にしないことにする。その店員さんたちが悪いのではなく、そのドーナツ屋の体質が悪いだけのことだ。だから、個々の店員さんに恨みはない。
企業は人であると主張する人たちもおられるが、僕はそうは考えない。企業と人とは別である。それは集団が個人ではないのと同じである。一人一人の善人が集まって、悪の集団になることもあるからだ。集団を構成する個人は、その集団とは無関係である。僕はそう考えている。
その後、結局、ドーナツを食べることなく、僕とYさんは店を出て、カフェでコーヒーを飲む。彼女は食べる。それは当然だ。でも、僕は食べない。空腹を感じていても食べない。なぜかと言うと、僕は自分のしたことに対して、自分自身に対して責任を取らなければならないと思うからだ。
食べる機会はあった。それを僕は自ら拒否した。だから今日はもう何も食べることはできない。僕は自分にそれを禁じる。あっちで食べるのを拒否して、こっちで食べるということはしないでおこうと決めたのだ。
今、時刻は23時。今日はこのまま原稿を書いて過ごそうと思っている。徹夜を覚悟している。腹は限りなく減っているが、夕食を拒否した僕は、朝食までは何も口にしないつもりでいる。
僕はそういうところが頑固なのだ。「働かざる者食うべからず」という故事を御存じだろうと思う。これはある禅僧の言葉である。その禅僧はかなりの高齢で、弟子たちは彼をいたわろうと決め、禅僧の仕事を肩代わりするようになった。僕は正確には覚えていないのだけど、大体次のようないきさつだと思っていただければいい。例えば、禅僧が庭を掃除していたら、それは私がやりますと言って、弟子たちが代行する。庭掃除できなくなった老禅僧は次に、例えば、畑仕事をする。すると、年老いた師匠にそういう体力仕事をさせるわけにはいかないと言って、彼らが代行する。こうして老禅僧の仕事を若い弟子たちが代わりにしていくのである。働かなくてもよくなった老禅僧は、最後には食べることを拒否したのだ。その時に「働かざる者食うべからず」を発したのだそうだ。
弟子たちからすると、何とも頑固で手に負えない厄介な師匠に思われたかもしれない。でも、僕はこの老禅僧の生き方を尊敬するのだ。上述のエピソードは、多くの否定が含まれているように見えるのだけれど、この禅僧は何一つ否定をしていないということが分かる。僕はそれを尊敬しているのである。
ドーナツ屋の店員や店の体質、さらには僕の夕飯抜きに至るまで、僕は何一つ否定していないつもりである。もっとも、この禅僧に比べたら、何ともスケールの小さい話ではあるが。
夕食の機会が与えられながら、僕はそれを拒否した。だから、僕は今日の夕食を食べるわけにはいかない。ただそれだけのことである。
携帯電話だってそうだ。家族で入っていた携帯電話を僕は持っていた。家族から与えられた携帯電話だ。それをある理由があって、僕は携帯電話を捨てたのだ。拒否したのだ。携帯電話を拒否した僕は、もはや今後とも携帯を持つ資格はないと考えている。それ以来、携帯なしの生活を頑なに送っている。
こういう考え方をしているから、僕は時々言いたくなることがある。カウンセリングを拒否したクライアントは、拒否した以上受けることは許されないと。カウンセリングを拒否したからには、カウンセリング以外の何かで自分の抱えているものを克服されたらよろしいと。ところが、クライアントは、あっちのカウンセラーを拒否して、こっちのカウンセラーも拒否して、それでも、カウンセリングそのものを受ける資格が自分には当然あると信じていることも多いものだ。僕自身は、それをしないことにしているだけだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)