4月16日:何者かになる 

4月16日(月)何者かになる 

 

 今日は家の事情で仕事を休みにしていた。用事そのものは夕方には終わって、それから高槻に出て、職場で過ごした。いつもの時間まで、職場で雑用をこなして、それから喫茶店に入って、サイトの原稿を書いたりして過ごしている。この文章もそこで書いている。 

 クライアントからいつも遅く帰られるのですねと言われることがある。やることがたくさんあるので、そうなってしまうだけのことなのだ。何もたいへんなことではない。家に帰ってしようと思っても、どうも家では捗らないのだ。両親が居るからだろう。僕は彼らに遠慮して生活している。 

 僕の実家は、僕が生まれ育った家でもあるが、それは父の家であって、僕の家ではないのだ。家族だけれど僕は自分が居そうろうの立場であることを自認している。親との関係をしっかり見ていくと、親が他人である、家族とは他人どうし集まりであるということが見えてくる。 

 多くの人はそういうことを否定したいのではないかな。家族をもっと理想化したいという気持ちもあるかもしれない。家族とは、もっと愛情や絆でつながった集団であると見做したいかもしれない。でも、現実を見れば見るほど、親兄弟は他人だということを知ってしまう。そして、僕はそれを受け入れている。 

 親が他人であるということを受け入れると、自分という人間がいかに孤独な存在であるかということが見えてくる。でも、自分のそういう孤独を体験していくのと並行して、孤独であるが故に、人と関係を築きたいという気持ちが生じてくるのが僕には分かった。 

 僕という一人の人間に存在理由などないと僕は考えている。存在意義よりも先に生まれてきたのだ。サルトルが「実存は本質に先立つ」と述べる時、僕は自分の感覚を後押ししてくれたように思った。僕たちは望むと望まないとに関わらず、先に誕生しているのだ。僕の誕生には、親には意味があったかもしれないが、その意味は親のものであり、僕のものではない。 

 親は親なりに僕を愛してくれた。でも、それが僕という人間である必要はどこにもないのだ。僕とは別の人間が僕の立場になれば、親は同じようにその子を愛しただろうと思う。親にとって僕とう子供である必然性なんてどこにもなかったのだ。 

 こういう考え方をしていくと、僕という一人の人間の無意味さが明確に見えてくる。僕たちは誰も意味や価値を持たずに生まれてくるものだ。そして、僕が幸福に生きるかどうかということは、誰も期待しているわけではない。僕がそれを実現するかしないかだけの話なのだ。こういう考えを推し進めていくと、自分がどこまでも虚無な存在に思えてくる。 

もし、生きている間に、僕の存在意義や価値を見出したとしても、必然的に迎える死によって、僕はそれらを手放すことが決定づけられている。人生とはなんとも不条理なものだと僕は思う。 

 こんな考え方をしているので、サルトルやカミュの思想に親近感を覚えるのだろうと思う。人間の根源にあるのは絶望であり、人間は絶望から生を始めるというのは、僕には真実のように思われる。サルトルやカミュは、物事が本当によく見えていたんだなあと僕は尊敬の思いを抱くのだ。 

 こういう思想はしばしば不健康な思想だと見做される。それも理解できないこともない。でも、不健康な思想をしているから、その人が不健康であるとは限らない。何者でもない僕が、何者かになろうとして今日一日を生きた。僕はそういうことをしている自分がすごく好きなのである。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

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