4月15日:生と死に取り組む 

4月15日(日)生と死に取り組む 

 

 今日はなかなか忙しい一日となった。それに多くの作業をこなすこともできた。だから僕としてはそれなりに充実した一日となった。半日禁煙もやっている。酒の次はタバコだと思っている。だけど、こればかりはなかなかうまく行かないね。まあ、長期戦でやっていくつもりだけれど。 

 今朝からミンコフスキーの著作を読み直している。今の若い精神科医はミンコフスキーやビンスワンガ―なんて人の著作を読んだりしているだろうか。僕はこの時代(1930年代~50年代)の精神科医を尊敬している。と言うのは、この時代は、現在のように精神薬が発達していなかったので、精神科医はその生身の人格で精神病者と関わり、彼らを理解しようと努めてきたからだ。理論は古くなってしまっているかもしれないけれど、僕はその姿勢を学びたいのだ。 

 彼らは精神病を理解する際に、フッサールの現象学的な方法を取り入れた。だから、僕はフッサールの現象学ももっと勉強したいと思っている。なかなかそこまで手が回らないというのが現状なのだが。 

 彼ら、現象学的精神病理学派の著作を読むといろんなことを学べる。ある精神科の言う通りで、彼らの理論は素晴らしいが具体的な治療技法に欠けるという批判は正しいものだと僕も思う。でも、現象学派のことを学ぶと、人間理解の幅が広がるように僕は思われるのだ。だから、もっと勉強したいと思うのだ。 

 知らない人からすれば、僕が何のことを言っているのやらチンプンカンプンかと思う。まあ、それはそれでよろしい。僕の独り言のようなものだと思ってくださればいい。 

 僕はもっと哲学を勉強しておけば良かったって、今になって思うのだ。数年前から、哲学も勉強している。精神分析を学ぼうとすればその元祖であるフロイトから始めるのがいいというのと同じで、僕はソクラテスから哲学の勉強を始めた。タレスから始めるべきなのかもしれないけど、なぜかソクラテス、プラトンから始めたのだ。 

 その後、ストア派哲学に、そしてヤスパースやパスカルにハマった。そしてサルトルは僕を夢中にさせた。実存思想は、僕が子供の頃に抱えていたテーマと同じものを扱っていると思うことがよくある。子供の頃、僕は自分が何なのか分からなかった。小学校4年生の頃に、僕は死ということをすごく真剣に考えていた。とても変な子供だったと自分でも思う。 

 でも、おかしなもので、当時、死について考えたことが、今の僕にとても役に立っているのを感じるのだ。いずれ死んでしまうことが決定づけられている人間が、一体何のために生きるのかということに僕は取り組んでいたのだ。人は死んで、どうせ最後には土に帰してしまうのだ。僕たちはそれだけの存在でしかない。存在というものを見つめていくと、その視点に行き着いてしまう。人生とはなんて虚無なのだろうと思ったものだ。 

 ただ、次の点はよく見えるようになった。子供の頃に比べて大きく変わった思考だ。それは死は自然のプロセスであるということを受け入れるようになってきたのだ。自然に抵抗しようとする人は、やはり死に対しても抵抗するだろうと思う。自然をそのまま受け入れることができれば、人は死を恐れなくなると僕は思うのだ。 

 それと、人間は生まれた時から死に向かって歩んでいるというような考え方にも、僕は賛成しなくなった。その考え方は、いわば生の目的は死ぬことであるという結論に行きつくからだ。人は死ぬために生きていると言うのと変わらないことである。死を人生の目標にしてはいけないことで、生には生の目的があると僕は思うようになっている。死はその後に来る、自然のプロセスにしか過ぎないのだ。 

 なんだか死のことを考えばかりいるように見えるかもしれないけれど、決して、そんなことはない。 

 僕たちは結局のところ、何者でもないのだ。他の人と比べても、一人一人の人間なんてそんなに違いはないものだと僕には思えてくる。でも、何者でもないということは、言い換えれば、僕たちはどんな人間にでもなり得る、そういう可能性があるということでもある。 

 今日も、クライアントとの面接を通して、僕は僕自身のテーマに取り組んでいる。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

 

 

 

関連記事

PAGE TOP