4月10日(水):ネットの厄介さ
このブログをどう活用していけばいいかで今も悩んでいる。
そこで、僕自身を見つめ直す場にしようと思い立つ。他人のことは基本的には書かない。でも、僕自身のエピソードを語る時にはどうしても他者の存在が現れてくる。これは避けようがない。他者が僕の世界に入り込むことによって、僕は他者とは切り離された一人の人間であることが確立され、僕に意味と世界が形成される。
他者が在ることによって、僕は個別化される。他者の存在は一人の人間が人間になるために不可欠だ。もし、他者がいなければ、僕は世界と融合したままの存在で居続けることになる。自他未分化な世界を生きることになる。自力ではここから抜け出せない。僕の存在を個別化し、意味を与えてくれる他者の存在がどうしてもそこにいなくてはならない。
僕が他者のことを記述するとき、それは上記のような理由によるものである。決して、人を苦しめたり傷つけたりする意図を有していないのだ。そこは強調しておきたい。
読者はしばしば僕の意図や思惑とは異なった捉え方をする。そんな風に捉えられて、僕の方がびっくりするくらいだ。できれば彼らが誤解しただけだということで納めたいのだけれど、書いた僕にも責任を感じる。
他の人たちはそこまで責任感を背負ってブログなんかをやっているのだろうかとも思う。もっと気軽にいろんなことを綴っている感じが僕にはしているのだけれど、そうではないのだろうか。
インターネットなんて、本当に厄介なツールだ。僕はそう思う。このツールのために、どれだけの職業が廃業に追い込まれて、どれだけの職業が余分な作業に追われるようになっただろうか。
便利だとは少しも思わない。世界とつながっていたところで、この私が世界の中に立っていない限り、そんなものは無に等しい。火星が僕にとって無であるのと等しい。火星とコンタクトを取ることができたとしてもだ。
インターネットの世界に生きた人間はいない。僕はそう感じている。これを書いている僕は存在している。でも、ネット上では、無機質な文章が羅列されるだけで、読む人はこれが僕だと信じる。これは僕のごくわずかな一面であるだけかもしれないのに。
これを書いたのは確かに僕だ。だから、ここには僕の何かしらのものが現れている。それは僕の一部分のところのものでしかないかもしれない。でも、読む人にはそんなこと知る由もない。
読む人の中で、僕ではない僕が形成されていくのだろう。そして、現実の僕がそこで形成された僕とは違うと言って、その人たちからお叱りを受けるのだろうな。では、僕とは一体何なんだと思えてくる。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)