4月1日(火):学問の世界
今日から4月だ。天気も良く、桜がしっかり咲いていて、公園で花見をしている人たちも見かけた。
今日は火曜日で定休日だ。職場でサイト作業をしようかと計画していたけれど、天気がいいから少し外に出ようと考えた。朝、家で原稿を一本(つまり1テーマ分)書き、午後、喫茶店でもう一本書いた。ついでにこのブログも書いている。
歩いていると、外は少し汗ばむくらいの陽気だが、爽快でもあった。新しい一日、新しい月が僕に与えられていることを感謝したくなる。
4月中にサイトの方をある程度までやって、室内の模様替えなんかもして、そして、これは僕の意に反することだが、サイトのスマフォ対応のことをこなすようにしよう。
若い頃、そんなに本を読んだり勉強したりするのが好きなのだったら、大学の教授とか目指してみたらどうかとある人に勧められたことがある。僕は学問の世界が好きではないので、勧めてくれたその人には悪いけれど、その提案を却下した。アカデミーの世界は本当にいやだ。
STAP細胞の論文で以前から物議をかもしている人がいる。僕はひそかにこれがどう収拾していくのか注目している。この問題は学問の世界ではどうしても生じる類のものだと僕は考えている。僕のサイトは個人名を出さないようにしようと務めているので、あの「割烹着の女性」もえらい世界に入ろうとしているのだなと同情したくもなる。
人間に関すること、その他のことであれ、新しい発見なんてそうそうあるものではないのだ。数学など、ここ100年くらいは新発見がないという分野だ。そんな状況で、限られた数年の間に、新しい何かを発見し、論文にして発表しないと、そこに今後の研究生活の存否がかかっているというのだから、学問の世界は本当に嫌だ。一生かけて何かを発見するという余裕がない世界であるようにも感じる。
そもそも、我々は学問についてどういうことを知っているだろうか。学問は私たちの知を深めるものであり、その意味で、新発見ばかりが学問ではないと僕は考えている。従って、何かが発見されました、何かが証明されましたが確かに学問であると同様、何かが発見されませんでした、それが証明されませんでしたということも確かに学問なのだ。でも、後者は失格とみなされる。本当に嫌な世界だ。
こういうものが存在するのではないかと仮説を立て、それを検証する。それが確かに存在しますと証明できることは価値がある。同じように、それが存在するということは確かに証明できませんでしたということも価値があり、両者は学問的には等価だ。でも、後者が認められないとすると、失格の烙印を押されるよりかは、捏造した方がいいと考えてしまうのが人間ではないだろうか。もう一方の結果にも価値を認めるべきだと僕は思うし、そうすれば捏造する必要もなくなると僕は思う。
シューベルトの交響曲第7番の問題を思い出す。この交響曲の第7番というのは長らく欠番になっていたものだ。記録の上では、第8番交響曲(これは「未完成」と題される作品だ)の前に、ハ長調の交響曲が演奏されたということが記されている。ところが、それの楽譜が発見されないでいたわけだ。従って、それを7番目の交響曲として、以後、欠番扱いになっていたのだ。
研究者たちは、どこかにシューベルトの第7交響曲があると信じて探していた。ところが、検証の技術が発達して、改めて楽譜などを調べてみると、第9番交響曲(これは「グレート」と題される)と、それまで欠番だった第7交響曲とが同一作品であることが証明されたのだ。つまり、第7番交響曲というものはなかったのだ。
ファンとしては、また研究者にとっても、いつかどこかで第7交響曲が発見されたらという願望を持っていただろうと思う。そして、いつかその交響曲を耳にしたいと望んでいただろう。僕もその一人だ。でも、あるはずだと信じられていた第7交響曲が、本当はなかったと分かることで、僕たちは一つの知を獲得したわけだ。そして、シューベルトの残した交響曲がすべて後世に残されているということに僕は喜びを感じたものだ。
「あるはずだ」と信じられていたものが「なかった」ということが分かるだけでも、僕たちは前に進むことができるのだ。それもまた学問ではないかと思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
やたらと誤字脱字、誤変換の類が見つかった。文章も一部手直しした。本当にイヤな話題だったのか、それとも春の陽気でおかしくなっていたのか。
(平成28年12月)