3月4日(日):祝200回記念
なんと驚くことに(呆れることに)、このブログ、今回でちょうど200回目である。昨年の9月から始めたから、今月で半年ほど経過したことになる。確かに200回くらいにはなる。
しかし、まあ、よくもこんなブログ、いや漫談、戯言、妄想の類がこれだけ続いたものだ。我ながら感心するというよりも、我ながら呆れるくらいである。「継続は力なり」とも言うが、一体、何の力がついたことやらである。
最初の頃はこれを書くのが苦痛だったこともある。今日は何を書こうかとか、いろいろ苦心したこともある。そういう時のために書き溜めをしておいたこともある。その中には結局ボツになったものも少なからずある。
今では、これを書くのがもっとラクになっているし、楽しめている。そうでないと続けてられないものだ。それと、「何のためにこれを書くんだろう」とか、立ち止まって考えてはダメだ。それをすると、一歩も前に進めなくなるものだ。「何でもいいから書いてしまえ」という気持ちで始めないと、とてもできない。これを書いている今現在において、僕は今日のこのブログがどういう結末に至るかまったく見えていないのである。行き当たりばったりもいいところである。書くことを決めて書くと、僕の場合はダメなようだ。書いている内に書くことが見つかっていくものであり、見つかったものをまた書くという連鎖式でないと僕は書けないようだ。案外、僕の生き方もそうなのかもしれない。
確実にレールを敷いておかないと進めないという人も多いのではないだろうか。しばしばクライアントの中にはそのような人もおられる。先が見えないと不安だという人である。気持ちは分からんでもない。僕もかつてはそうだったのだから。完全に計画を立てて、見通しが付けられないと、僕は前に進めない人間だった。それでたくさん損をしたと思うよ。
今は多少生き方が変わって、何でも、とにかく始めてみたれという感覚がある。やってみてアカンかったら、止めたらいいというだけのことである。止めることができない類の作業なら、違ったやり方でやってみたれというだけのことである。
僕が学生だった頃、学歴というのがけっこう物を言っていた時代である。今はどうなっているのか知らない。一流大学を出て、一流企業に勤めて、というのが幸福の一形態だったように思う。今ではそんなこともないのかもしれない。でも、その幸福は親の幸福だったはずである。僕はあまりそういうことを望んでいなかった。自分の価値観をしっかり見出して、自分のものにしていくと、生き方は変わるものだと僕は思う。
しかし、200回もよくこういうたわ言を続けてきたものだ。大体一回を800字から1200字くらいにしようと決めていた。決まっていたのはその枠組みだけである。時にそれを超えることもあるし、それに満たないこともあるが、概ねその範囲内だ。原稿用紙にして2~3枚といったところだ。それが200回だから、400~600枚の分量に匹敵するわけだ。ちょっとした長編小説分くらいにはなる。これから読もうという人には荷が重いことだろうと思う。それでも僕は書く。適当な時期から読んでくれれば結構である。そして、200回、欠かさず読んだという人がいるとすれば、その人はよっぽど僕のファンか、僕と同じく奇人なのかもしれない。
ああ、今回も何とかオチがついた。行き当たりばったりに書いて、オチがつく瞬間は快感である。この快感が止められないのかもしれないね。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)