3月4日(木):書架より~『買い物しすぎる女たち』を読む(3)
(第4章・生い立ちに何か問題がある)
第4章に入ろう。ここはとかく問題の多い章だ。まず、最初の一段落をそのまま記載する。
「買い物依存、あるいは買い物依存症になるような人は、依存症になりやすい人格を持っていると言われている。つまり、何か面倒なことが起こると、それを解決しようとして、強迫的・依存症的行動を取ってしまうのである。依存症への道は、長く、曲がりくねっていて、逆にたどっていくと最後には自分たちが育ってきた家族へと帰り着く。その家族のほとんどに機能不全がみられる」
こんなぶっ飛んだ文章を読むのは久しぶりだ。『ギャンブルの哲学』以来じゃないかな。
まず、買い物依存症になる人には特有の人格があるということを言っている。「買い物依存症者には人格傾向に共通するものがある」などとは言っていないことに注目だ。
では、それはどのような人格なのか。次の一文はその説明なのだろう。面倒なことが起こるとそれを解決しようとして強迫的・依存症的行動を取ってしまうという。これがその人格ということになるだろうか。しかし、これは依存症者に特有の行動パターンであり、必ずしも人格と同一視できるものではない。その行動パターンの基礎にあるものが人格である。そして、この記述はそもそも依存症の臨床像を述べているだけに過ぎないように思う。
そして、この人格(著者が言うところの人格)は機能不全の家族によって形成されるということを最後に言っているわけだ。内容が飛躍しすぎである。
そもそも、僕たちは第3章で自分が買い物依存症であるとチェックされた。あれは下手にチェックすると買い物依存症に該当してしまうという不公平極まりないテストだった。この時点ですでに自分は買い物依存症で、自分には問題があると信じてしまう読者もおられるのではないかと思う。
そして、この第4章で、いきなりそれは人格の問題とされ、最後に家族の機能不全の問題と決めつけられてしまうのだ。これはどういう経験であるか。一方ではあなたには問題があると示され、同時にあなたには問題はない(人格や家族の問題である)と示される。そして、それは人格の問題であるかのように示され、それは人格の問題ではないと決定されるのだ。
このようなメッセージは二重拘束である。だから読み手は混乱するだろうし、場合によっては非常に不安に襲われるようになるかもしれない。
不安に襲われた読者、落ち着けなくなった読者は、この先を読み続けることによってそれが解消されることを期待するようになるかもしれない。つまり、読み手の態度が変わるわけだ。そこに解決を見いだそうとする読み手に変わるわけで、ある意味では宗教に救いを求める信者のような態度が形成されると僕は思う次第である。
次に機能不全ということが記述される。これは、文字通り、正しく機能しないという意味であるとのことだ。
この著者は概念規定を明確にせずに論述するところがあると僕は思っている。機能不全家族という概念を持ち出すならば、その概念規定を少しばかりしておく方がよい。
家族心理学を勉強している人であれば、例えばシステム理論のように、家族を一つの「系」として、システムとか機能として見る見解があるのを知っているだろう。それはいくつもある家族理論の一つである。しかし、読者のみんながみんな専門家というわけではないのだから、まず、それを明確にするべきである。家族をとらえる一つの理論であるという限定をしなければならない。
次に、では家族の機能とは何かということを明確化する必要があるだろう。おそらく、この機能は多数あるだろう。その多数ある機能の中で、本書ではこの機能を取り上げるというふうに、家族のどの機能を論じているかを限定しなければ読者が混乱してしまうだろうと思う。ここを限定しないとどんなことでも「機能」に組み入れることが可能になってしまうからである。
三番目に、家族のその機能が不全である場合、それはどういう家族になるのかを規定しておく必要があると僕は思う。その機能が不全に陥ると、家族はこういう形態になり、家族成員間でこういうことが起きるなどを述べること、つまり、その機能不全の家族のいわば定義をすること、もしくは機能不全家族の典型的なモデルを提示することの必要を僕は認めるわけだ。そうでないなら、問題のある家族はすべて機能不全家族に組み入れることが可能になってしまうからである。
四番目に、その機能が不全に陥った家族で成長した子供はその機能不全でどのような影響を被るかという話をするといいだろう。三番目の過程が機能不全家族の現象とか定義に関わるものであり、この四番目の過程は機能不全の「作用」に関する問題である。
最後に、この「作用」を受けて育った子供にどういうことが起きるかを記述する。ただ、この段階の過程は第四の過程に含めても良かろうとは思う。
本書は、上記のプロセスのうち、最初の三つをすっ飛ばして、いきなり四番目のものを取り上げているのだ。
僕は「機能不全家族」という概念がまったく分からないまま本章を読んだ。著者の定義から推測すると、この「不全」の主体は機能になるのだろう。家族の不全ということではないようだ。こんなふうに推測しもって読まなければならないというのも、著者の概念規定が不足しているからである。
「不全」の主体はどこにあるのか、それと関係して次の段落(第3段落)に注目しよう。著者はアーニー・ラーセンという人の著書を引用して、私たちの行動の90%は習慣の結果であり、選択の結果ではないということを述べている。こいつらは実存主義を知らんのかと言いたくなる。
習慣的な行動であっても、僕たちはその都度の場面で主体的な選択をしていることが多いのだ。いつもと同じ手順の作業をしているにしても、今日はこれをちょっと早く済ませようとか今日は先にこっちをやってしまおうとか、そういったことが起きており、細部を見ていくと必ずしも習慣的にやっているとは言えなかったりする。日によって多少の違いが生まれているものである。仮に習慣的な行為であっても、その開始はかなり意志的に行われていることも多い。習慣的行為であれ、機械的かつ自動的にそれをしているのではなく、やはり僕たちはなんらかの選択を主体的に行っているのだ。まあ、その話は置いておくことにしよう。
この著者に決定的に欠けている概念は「主体」ということだ。他にも欠落している概念があるのだけれど、それは後に述べることにしよう。
依存症者が依存行為をする時、必ずしも機械的にやっているわけではないのだ。強迫的行為でさえわずかでも主体性をそこに認めることができるのだ。それをしようとしてしているという主体的選択が含まれているのである。もし、そうでなければ、それは依存症ではなく解離性症状である。別の問題になってしまう。つまり、依存症は「自動症」ではないのだ。
もし、「自動症」のような買い物依存症があるとするなら本書の説明は頷けるだろう。しかし、どうもそういう人たちを取り上げているのではないようだ。
さて、僕たちはここでさらに混乱を来たす。先述したように、あなたには問題があると示されると同時にあなたの問題ではないと示されたが、ここではあたかも、機能不全家族の問題であると同時にそうではない(習慣の問題である)と示されたかのように僕は体験した。あらたな二重拘束を課せられた感じがしてしまう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)