3月4日:コロナ・ジェノサイド~そのマスクは意味なし

3月4日(水):コロナ・ジェノサイド(7)~そのマスクは意味なし

 

 ここでコロナ騒動のことを書くのは終わりにしようと思っていながら、結局、こうして追加で書いてしまう。僕のこの性格も困ったものだ。

 

 学校はすべて休校となった。次に学校に行くときは学年が上がっていたりするし、卒業式も異例の形式で行われたりもした。子どもたちも災難であるとは思う。

 そして若者たちの自粛が求められている。それに対して若者は声を上げている。いくつか彼らの言い分がテレビで紹介されていたが、けっこう的外れな見解もあった。若いから仕方がないかもしれないけれど、思考が一面的すぎるのだ。

 まず、この自粛は大人たちが先に求められたのである。企業は在宅勤務を推奨する。ハッキリ言えば、学校が休校になるのと同じことが会社で起きていたのである。学校よりも会社の方が先だったのである。

 そして、娯楽施設に入れないというのは大人も子供も同じである。大人の方が先にこの不自由さを経験しているのである。

 この娯楽施設ということだけど、人が集まる場所はとかく出入り禁止となる。映画館、ライブハウス、カラオケボックス、イベント会場などである。その中に麻雀が入っているのがおかしかった。若者ってそんなに雀荘に入り浸るのかね。中国の資料をそのまま借用しただけのような観を呈する。

 麻雀と言っているのは、要するに、娯楽の場所のことだ。パチンコ店も含まれるだろうし、麻雀に限らず、将棋や囲碁の道場なんかも含まれるのだろう。

 いずれにしろ、学校や会社が休みであっても遊ぶなということである。大人も子供もそこは同じである。

 

 あれだけデマであると報道されているのに、トイレットペーパーの買い占め騒ぎは続いている。それがデマであるかどうか、もうそんなことは関係ないんだろう。何かやっているという感覚、将来に備えているという感覚、さらにはコロナ状況に手を打っているという感覚が得られればそれでいいのだろう。安心のためにやっているだけだ。もしくは退屈のためにやっているのだと僕は思う。

 要するに自己欺瞞なのだ。本当はしなくてもいいことをやることで、必要なことをやっているという錯覚に自らを陥れるのだ。無意味なことでもって無力感をごまかしているだけではないだろうか。

 

 それからマスク不足だ。マスクが本当にコロナ感染に効果があるのかどうか、僕は知らない。ただ、そう言われているからそうして信じているだけかもしれないのだ。現に、クルーズ船に入った検査官はマスクを着用していたにも関わらず感染したではないか。

 それでマスク不足だ。僕は転売屋が一番タチが悪いと考えているけど、一般の人もそうだ。マスクの意味のない人も大勢いる。それなら着用しなければいいのにと思う人たちだ。

 マスクをしていることよりも、人が集まる場所を避ける方がいいのだ。それなのに、トイレットペーパーを買うために行列を作る。マスクを買うために行列を作るなんて本末転倒である。僕も先月末に銀行に行った。ATMのところに長蛇の列ができている。政府はそれを解消すべきなのだ。

 僕はマスクをしていない。今回のコロナ騒動が起きてから一枚も消費していない。理由は簡単だ、僕がタバコを喫うからである。

 喫煙場所に行く。マスクを顎までずり下げて喫煙している人も多い。喫煙後、再びマスクをずり上げるのだけれど、それは意味がないのだ。外出時にマスクを着用したら最後、帰宅まで絶対にマスクに触れてはならないのだ。当然、食事も無しだ。

 ところが、朝、出かける前にマスクをつける。駅の喫煙場所でマスクをずらして喫煙する。そのマスクに触れて再び着用する。昼食時にはマスクを外してどこかに仕舞っておく。食事が終わるとそのマスクをつける。食事時だけでなく、お茶を飲むときだってマスクを外す。

 分かるだろうか。これって菌をばらまいているに等しい行為なのだ。拡散させてしまっているのだ。マスクを着用したら、決して布地の部分に触れてはならないし、その布地の部分を他の場所に密着させてもいけないのだ。外出時にマスクを付けたら、帰宅までマスクを外してはいけないのだ。食事をすることも、水を飲むことも、一切が禁止である。

 そんなの守れないという人が大半である。だから無造作な使用方法をやってしまうのだ。もちろん、そうなるのも仕方がないということは僕にも分かるんだけど、それならいっそのことマスクなんて着用しない方がましなのだ。

 

 それで病院とか施設とかでマスクが無くなりそうだと言う。病院や介護施設の職員たちが悲鳴を上げているという。一般の人が購入を控えれば、病院などにも流通するだろうと思う。当然、転売も禁止すればということである。

 政府は北海道にマスクを送ると言う。これが北海道からという意味ならまだいい。北海道を皮切りに各都道府県に配布するというのであればいいわけだが、あいにく、そこは分からない。

 北海道に配布するといっても、一般の人に配るということであって、病院とか施設とかを優先的に配布するというものではないらしい。ハッキリ言って、政府は何がしたいのか不明である。

 もし、道民を助けたいということであれば、道民を助ける仕事をしている人たちを助けるのが先決である。マスクを道民に配布しても、マスクがないので診察できない病院が生まれたら意味がないのである。配布されたマスクが底を尽きれば道民に残されるのは絶望だけではないだろうか。

 また、政府にはマスクのストックがあるはずである。医療の場で必要なものは国がストックしていることが多いのだが、マスクもストックしている分があると聞いている。それを使ったらどうなんだと僕は思う次第である。

 ストックしているマスクに関して、最悪のシナリオはこうである。マスクが不足している外国にマスクを提供して、日本の株を上げるというものだ。もしそうなったら、その日本のクリーンなイメージというか幻想は、国民の犠牲によって成り立つものである。そんなもののためにマスク不足に泣かされるなんて、僕はウンザリだ。

 

 おっと、話が拡散しすぎたな。

 今日の話の要点は、マスクを着用するなら、マスクにもう少し神経を使った方が良いということだった。言い換えるなら、マスク着用にも強迫性を持ち込まなければならないというわけだ。手洗いは強迫的になるのに、案外、マスクは無頓着な人も多いように思う。

 

(注:僕は今ではマスクを欠かさず着用している。着用するなら正しく着用するように心がけている。どれだけ成功しているかは不明だけれど)

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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