3月31日:本を伴侶に 

3月31日(土)本を伴侶に 

 

 昨日の話をもう少ししよう。昨日は一日外回りをしていた。 

 朝、古本屋に寄って、本を一冊買う。今日の伴侶にする本だ。柴田錬三郎の「おれは大物」という長編小説を選んだ。100円で購入する。柴田錬三郎は名前だけ知っていて、実際の作品を読むのは初めてだ。時代小説がほとんどらしいけれど、この長編は現代ものなので、読んでみる気になった。文庫本で530ページほどある長い作品であるが、一日の伴侶にはちょうどいい長さである。それに現代ものといっても、恐らく昭和40年代の初めころが舞台設定である。 

 余談であるが、僕は昭和30年代がそれほど理想的な時代だったとは思わない。美化する人たちもおられるようだが、僕は反対である。僕の見解では、昭和30年代は戦後復興から脱却し、経済成長を遂げた時代であった。その歪みが昭和40年代になって生じてきた。例えば公害問題がそうである。家庭の問題、特に子供に現れる問題(登校拒否や家庭内暴力など)が顕著になってくる。実際、30年代にその萌芽があったはずなのであるが、日本人はそれを無視してきたのだろうと僕は思う。僕も昭和40年代生まれの人間である。だから、30年代というのは神話的な性格を帯びている。僕は40年代を知りたいと思う。それが僕の生まれた時代であり、僕が性格形成していった時代だから、どんな時代であったかを知りたい。でも、40年代を知るためには、30年代のことを知っておかなければならない。歪みは30年代に生まれたものであるからだ。その歪みは今でも引き継がれていると、僕は見ている。 

 それはともかく、歩いていて、一休みするとなると読み、ご飯を食べるとなると読み、歩きながらでも読む。そうしてなんとか昨日一日で読破することができた。面白かった。ただ、登場人物たちは現代の目からすると、かなり昔の人間というイメージを抱く。「おれは大物」というタイトルであるが、登場人物の中に「大物」は見当たらない。もちろん僕の目から見てということである。この中で唯一の「大物」は、登場人物の一人一人に少なからず関係している老婆であろう。このおばあさんの存在だけで、この本は買う価値があったと思った。 

 ところで、本は一日一冊以上は読む必要がない。僕はそういう考え方をしている。多くても一日二冊までで止めておく方が良い。一日に十冊読むのなら、一冊の本を十回読む方がましである。時々、速読をやっている人を見かける。数分で一冊読み終え、即座に次の本に手を付け、そうして一日に何冊と読む人がいるが、ああいうのは見下げ果てたものだ。一冊読んだら、せめてその日一日くらいはその本にじっくり浸り、付き合ってやった方が本も喜ぶというものだ。ああいう人を見かけると、読破するために読むという感じがしてならない。読み終えるために読むという感じだ。本当にその本を愉しんでいるのか、その本から多くのことを学ぼうとしているのか、僕にはまったくそういう風には見えないのである。愚かな本の読み方である。 

 一冊の本を今日の友として生きるというのが、僕の理想とする読書ライフなのである。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

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