3月29日(木):まだまだやれる
昨日、Yさんと約束した通り、僕の方も次に会うまで一生懸命に生きるつもりだ。昨夜、その覚悟をしたのだ。仕事は少しだけ予約が入っていた。それ以外は、銀行に行ったり、支払をしたりで、外回りをしていることが多かった。それ以外の時間はすべて原稿書きに費やした。
前々から書きたいテーマのことがあった。僕は一度書いて置いておいたと思ったのだけれど、それは僕の勘違いで、どうやら以前のパソコンを使っていた時代に書いたもののようだ。そのパソコンは壊れてしまって、もはや使えないので、僕は以前書いたものを、記憶を頼りにして書き直したのだ。
それはオカルトとか心霊現象なんかに関係したテーマで、いずれ僕は新たにページを設定して掲載しようと思っている。仕事や用事の合間を縫って、書き綴っていった。今日一日で二万字くらい打ち込んだのではないだろうか。原稿用紙にして50枚分だ。明日は外出する予定をしているので、臨時休業にするつもりである。今夜は夜通し書いてしまいそうだ。
ここしばらく体調は芳しくなかったけれど、今日はましである。寒さがましになったお陰かもしれない。一日ずっとパソコンの画面と睨めっこしていたけれど、それほど疲労感を覚えていない。まだまだできそうである。
こういう時、僕にはまだまだ生きていけるという確信が生まれるのだ。いや、生きていこうという決断かもしれない。
僕が思うに、自殺者は自殺を実行する以前から死に近い場所で生きているものだ。近いと言うのは心理的な意味であって、物理的な距離を言っているのではない。もしくは、自殺する前に一部は既に死んでしまっているのかもしれない。生きながらにして、死に非常に近い所にいるから、案外その一線を超すことは自殺者にとってはそれほど困難なことではないのかもしれない。それを何とか阻止しようと頑張っている人たちも知っているけれど、完全に防ぐことなんてできないものだ。
それよりも、自殺者が生きている間に生命感情の方に近づいていくことの方がはるかに重要なことだ。僕から見ると、当人も援助者も取り組むのが遅すぎる感じがする。
取り敢えずでも生きていければそれでよしとしなければならないものだ。生きていけるというのは、これもまた物理的な意味で言っているのではなくて、心理的な意味である。まだ生きられると体験できている限り、僕は死よりも遠く離れた所に位置しているように思える。そして、それが肝心なのだろうとも思う。
僕は今日、しっかり生きただろうか。それなりにしっかり生きたという感じはしている。反省点は多数あるし、十分満足しているわけではないけれど、ほどほどに良ければそれで良しとしないといけないね。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)