3月27日:コロナ・ジェノサイド~無力と攻撃性

3月27日(金):コロナ・ジェノサイド(12)~無力と攻撃性

 

 東京の方ではスーパーに人が殺到したそうである。人はそこで大量の食料品を買い込む。結局、外出自粛が要請されていながら集団が形成されてしまうのである。そんな矛盾を生み出している。

 この殺到は東京都が発表した首都封鎖の可能性の報道によるものであるようだ。首都が封鎖される。それはかつてニュースなんかで観た武漢の光景を予想させるものである。ああいう生活になってしまうと人々は危惧したのかもしれない。

 スーパーの買い物客が言うところでは、他の人が大量に買い込むので自分もそうした方がいいのではないかと、そういう気持ちになったとのこと。もちろん、その他の感情体験をした人もあるだろう。

 マスクが店頭から消え、次にトイレットペーパーが消え、今度は食料品が店頭から消えるのである。それも保存のきく食料だけでなく、あまり保存期間の長くない食料までもが消えるのである。外出禁止に備えて保存食を溜め込むというのは理解できるが、保存があまりきかない食料まで人が買い求めるのは、僕には不思議な気がしてならない。どこか本来の目的を失ってしまっているように思える。

 そもそも東京都の発表が封鎖を前面に打ち出していることにも問題がある。流通は封鎖しないこと、買い物等の外出は認められることをきちんと打ち出していない感じが僕にはしている。

 政府も食料メーカーも食料は十分にあるということを主張し始めている。ストックが十分にあるし、新たに生産できるということもアピールしている。しかし、この流れはその程度のことでは収められないだろうと僕は思う。トイレットペーパーの時がそうだった。

 

 さて、我先にと買い求める行為とはどんな感情に裏打ちされているだろうか。それを考えてみたい。もちろん、当人たちは不安に襲われているという理屈は正しいだろう。不安に駆られて、自分が食いはぐれてしまわないように、ああして買い求め、且つ、大量に買い込んでしまうのだと。これは経験的にも理解できる説明である。

 僕はもう一つの可能性を考えている。それは攻撃衝動である。人よりも獲得しなければならない、他人を押しのけてでも入手しなければならないとすれば、その人を動かしているのは、不安ではなく、むしろ攻撃衝動ではないだろうか。

 そして、その破壊性の背後にある感情はなんだろうか。不安だけでは破壊は生じないかもしれない。そこに攻撃衝動が加わるので破壊性が増すのではないだろうか。

 そういうわけで、トイレットペーパにしろ、今回の食料にしろ、人々を動かしているのは攻撃衝動である。不安は、どちらかと言えば副次的に重要な役割を果たしているに過ぎないと思う。

 ところで、この攻撃衝動は、もちろん正当な方向から逸れているものである。攻撃衝動は災いに対して向けられなければならない。災いを克服する時、つまりコロナに打ち勝つということであるが、その闘争に攻撃衝動が向けられるのが本来の方向ではないかと僕は思う。その本来の方向が阻止されていて、攻撃衝動が別の水路を取って表面化してしまっているのではないかと、そのように僕には思われてしまうのだ。

 では、攻撃衝動がどうして正規の方向を取らずに、脇道に逸れてしまうのか。それは正規の方向である災いに対して無力感を体験しているからであると、僕は思う。何をやっても、どのように挑んでも効果がないのである。そこに攻撃衝動を向けたところで太刀打ちできないという感覚に襲われるのである。そして、行き場の失った攻撃衝動はまったく別の場面において噴出することになってしまう。

 その別の場面というのも、一つとは限らない。様々な場面で噴き出すことになる。大人の若者批判、同じく若者の大人批判、さらには外国人や感染者に対する差別、国や政府に対する反感、イベントの強行、外出禁止要請に対する無関心、無謀な集会(飲み会などのことであり、自殺行為である)、などなど、数え上げればきりがないほどである。学校の長期休校やテレワークもまた攻撃性噴出の基盤となるかもしれない。今後は暴動や自殺が相次ぐかもしれない。それもまた行き場のない攻撃衝動の発露である。僕はそう考えている。

 

 もし、戦うことが望ましいのであれば、正しい相手と戦わなくてはならない。戦う相手を間違えてはいけない。コロナと戦うのであれば、コロナだけと戦わなければならないわけだ。その他の対象と戦ってはいけないわけだ。

 また、その攻撃衝動の昇華の道も模索しなくてはならない。相手がまともに戦えるような対象でないならば、相手に対する攻撃衝動を僕たちは適切に昇華していかなければならないと思う。攻撃性に価値ある水路を切り開いてやらなければならないわけだ。

 僕はコロナウイルスに対しては無力だ。でも、自分の人生に対して無力になるつもりはない。ウイルスとは直接戦えなくても、僕は僕の攻撃性を他の事、僕にとって価値のある活動に没頭することによって昇華していくつもりだ。このブログも昇華の一環のつもりで書いている。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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