3月26日(月):利き手の話
時間が空いたので、もう一本書いておこう。
常に書いて、残しておこうとしている。僕自身のために書いておく。書いたものの中で、そのいくつかはこのブログに、他のいくつかはサイトの原稿になる。それ以外は誰にも読まれることのない文章である。
僕には吃りがあって、今でも言葉に詰まる時がある。それが生じると僕は非常に気になるのだが、クライアントたちは気づいているだろうか。
クリニックにいた頃は、僕はそれが非常にネックになると捉えていた。実際、当時の先生たちからは言葉を流暢にした方がよいと諭されたものだった。僕は今ではそんな風には考えていない。僕が吃るのなら、僕は自然なままをクライアントに見せた方がいいと思っている。変に隠したり、ごまかしたりしない方がいいというものだ。
この吃音にはきっかけがある。僕はもともと左利きだったのだ。それが小学生の頃に、親から右利きに矯正されたのだ。その時から吃音が出始めたのだ。当時はひどくて、急に言葉が出なくなるということを度々経験した。何かを言おうとしても、発声できないのだ。
大学時代にフロイトを読むまで、僕のそれがヒステリー症状だということを知らないで過ごした。僕は抗議したかったのだと思う。でも、それは発せられてはならないものだったのだ。言葉が出なくなるのは、禁じられていることを発しそうになるからだったのだ。小学生の頃に、僕は左利きでやっていくと言えていたら良かったと思う。それを言うことが禁じられていたのだなあと思う。
でも、右利きに矯正したとはいえ、それは完全ではなかった。一部は左のままのこったのだ。だから僕はよく両手利きだと言ったものだった。
初めて手にするものは、どちらの手で持ったらよいかで非常に悩む。大学生の頃に、初めてテニスというものをした。僕の場合、テニスラケットをどちらの手で持つかということから始めなければならなかったので、たいへんだったよ。野球のグローブとかギターとか、右利きの兄のお古を使った物に関しては、僕は右利きなのだ。変な話に思うかもしれないね。
ギターは、初めの頃は左利きの方が弾きやすかった。つまり右手で弦を押さえて、左手で爪弾くのである。でも、兄とギターを共有する内に今ではすっかり右利きに馴染んでしまった。ピアノは手を逆にするということができない楽器だけど、左手の方が指がよく動く。トランペットはどちらの手で持っても演奏できるそうだ。そういう楽器を選ぶべきだったなと思う時がある。
箸と鉛筆はずっと右手で通してきたけれど、20代の半ばから、箸に関しては左手に戻した。やはり左手の方が持ちやすいのである。書く方は、左手に戻したかったけれど、結局、これに関しては、右手の方が仕事がしやすいということで右手のまま残っている。
左手で書いていた時のことを覚えているし、何度か左手で書いてみたりもした。日本語の文字は左手では非常に書きにくい。漢字にはへんとつくりがあるが、左手で書くと、左手でへんを隠してしまうのでやりにくい。隠さないためには手首を内に折り曲げるようにして書かなければならないが、これはけっこうたいへんなのである。また、縦書きの文章は左手でかいても差し支えないが、横書きの文章を書くとなると、左手はやりにくい。まあ、僕の個人的な体験なのだけど。それで、結局、書くのは右手の方がいいと、僕がそう選んだのだ。
パソコンには文字を配列したキーボードがある。左半分は左手で、右半分は右手で打つというのは常識であるようだ。でも、僕の場合、左から三分の二(左端から「7UJN」辺りまで)が左手の領域で、右側三分の一が右手のエリアとなっている。左手の方が範囲が広いのだ。これも左利きの影響だろうか。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)