3月22日(木):文学と乱読家
少し時間があるので、今日はもう一本書いておこう。仕事を終えて、喫茶店でこれを書いている。疲れているのだから真っ直ぐ帰宅すればいいのだけれど、僕はどうしても家との間にワンテンポ置きたくなる時がある。今日もそうだ。コーヒーを飲んで、少し寛ごうなどと最初は考えるのだけど、寛ぐのは最初の数分間で、そのうち鞄からパソコンを引っ張り出し、あれこれ書き始める。そうして書き物に夢中になって、気がつくと終電の時間ということも頻繁にある。今日もそのパターンになりそうだ。
今日、打ち合わせで営業の人と本の話になった。彼は文学が苦手だと言う。僕もそうだった。今は、文学が好きで、火曜日からトーマス・マンの「魔の山」に取り組んでいる。とても長い長編だ。これをなぜ読むのかと尋ねられると、僕は「分からない」としか答えようがない。
「魔の山」は主人公がアルプスの療養所でいとこを訪れる場面から始まる。主人公は三週間の予定で療養しようと計画している。このようなことを、僕はまず体験することがないだろう。主人公はそこで治療を受けている人たちと出会う。療養所に到着して二日目、いとこと会話しながら彼は地面に幾何学図形を書き始める。また、その後、いとこと時間についての哲学的な問答をする。主人公は造船技師を目指している。エンジニアであり、技術屋である。彼の行動は「下界」の彼からは思いもよらないものだ。二日目にして彼に変化が起きている。この変化は読んでいる僕に生じているのではない。でも、僕は彼の変化が頷けるように思われている。なぜなら、それまでに主人公はいくつもの「死」に触れているからである。彼は人間の何かを感じ取り、体験しているかもしれない。僕がそういう理解を得るのは、僕が主人公のその体験を体験していないからである。僕がそれを体験しているのであれば、きっと、僕は自分に何が生じているのか把握できないでいるだろう。
文学には常に人生が描かれているものである。短篇小説が人生の一日や数日を切り取ったものであるとすれば、長編小説はもっと長く、人生の数年とか一生を取り上げているものである。もちろん例外はある。確かドストエフスキーの「白痴」はわずか四日間の出来事を描いた長編である。それでもそこに登場人物の人生があることに変わりはない。
私が私の人生を通して、人生の何かを掴みとろうとしても、それは至難の技である。なぜなら、私は私の人生の真っただ中に居るからである。建物に中にいる人は、それがどんな姿の建物であるかを知ることは難しい。それと同じである。建物の姿を知るためには、建物の外に出て、外から眺めてみなければならない。対象化しなければならないのである。僕は文学でそれをしているのである。もちろん、これは僕の個人的な文学の愉しみ方である。
僕は人の一生を知りたい。カウンセリングをやってきて行き着いたのはそこである。人間の一生とは何か、人生とは何かという問いである。文学は僕にそれを客観視させてくれる。その問いに対してのなにがしらの理解が得られたとすれば、その作品はたとえ商業的には売れなかったとしても、僕にとっては名作なのだ。上下巻の「魔の山」はまだ上巻の200ページくらいまでしか読んでいないが、既に、「これはもしかすればとても奥の深い作品だぞ」という感じがしている。丹念に読めば何か得るところのものがありそうだという期待もある。
まあ、こういう読み方をする必要もないものである。文学は小説であり、物語があるのだから、純粋にドラマを愉しめばいいのである。それが本当の文学の愉しみ方かもしれない。
ついでに、僕のような多読、乱読する人間は本当の読書家ではないと僕は思っている。本当の読書家というのは、愛読書ともいうべき一冊の本を人生の伴侶のごとく持ち歩き、それを何度も読み返す人だと思う。一冊目が擦り切れ、ボロボロになったら、同じ本を買い直し、何度も読み返し、買い直すという人が本当の読書家だと思う。『月長石』(ウイルキー・コリンズ著)に登場するガブリエル・ベタレッジ執事のように。『ロビンソン・クルーソー』を愛読し、事あるごとに同書を紐解く姿は、僕にとっては一つの憧れである。多読家、乱読家の頭の中は、その本棚と同じように、雑多になり過ぎているかもしれないと、僕は思うのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)