3月19日:日々是学也―1

3月19日(日):日々是学也―1(3月12日~19日) 

 

 このタイトルは「ひび・これ・がく・なり」(もしくは「ひび・これ・まなび・なり」)と読んでいただければ結構だ。日々勉強して、勉強したことをここに書く。 

 もっと勉強したいと思う。でも、若いころのようにがむしゃらにできないし、根気も続かない。一日、論文1~2編、本で言えば1~2章程度をじっくり読みたいと思う。以前のように、一日に論文10本読んだりするエネルギーは今の僕にはない。 

 

<3月12日> 

今日、選んだ本はアンドリュー・ライト著『サクセスコミュニケーション』(ナカニシヤ出版)だ。20年ほど前、クリニック時代に買った本だ。どういう理由で買ったのかはよく覚えていないけど、TAが取り上げられているので買ったのだと思う。久しぶりにひも解いてみる。 

 

(1-1)「第1章 接触が大切!」 

 コミュニケートの語源は「与える」とか「分かち合う」といった意味で、「人と共通の扉を持つ」という意味がある。 

 2万年前、人類が狩猟生活をしていた頃から、人々はコミュニケーションをとっていた。言葉、身ぶり、衣服などはすべてコミュニケーションの重要な側面である。 

 野生児たちの記録は、彼らが言語的交流ができず、意思疎通ができなかったことを示している。話すこと、理解することは、野生で育つよりも、家庭で育つ場合の方が複雑である。 

 最後にコミュニケーションを成功させるためのチェックリストが挙げられている。 

 この7項目から成るチェックリストのうち、一つでも「いいえ」があればコミュニケーションは成立しないとあるが、あまり役に立ちそうなチェックリストではないようだ。 

 

(1-2)「第2章 ことばをいかに使うか」 

 コミュニケーション場面。人は考えていることとは別のことを話していることもある。 

 言葉は、その言葉から連想されるイメージを各人が持っている。相手がそれとは違ったイメージを持っている場合、相手は正確に理解できない。同じ言葉を使っていても、誤解してしまうことがある。イギリスの「ティー」は中国の「お茶」と同義ではない。 

 世代間ギャップ、知識のギャップは言葉の意味を通じなくさせてしまうこともある。単語だけではなく、知識や経験が共有されていないと、意思疎通がうまくいかない。 

 我々の認知や記憶は言葉によって影響を受ける。 

 言葉と文法を知っているだけでは相手に伝わらない。経験を積まなければ分からないこともある。音調やイントネーションも重要な要素である。 

 

 第2章ではいくつか具体的な場面が取り上げられていて面白い。 

「ある人は説明することよりも共有することを望みます。そういう人は分析しようとしません。経験を記述することを好み、それに自分の意見を付け加えることを好みます」。こうした共有することが好きな人と分析することが好きな人とではまずいコミュニケ―ションが生まれる(p28)。これはなるほどと思った。 

 また外国人に理解してもらうための話し方のポイントは参考になる。(p34) 

 これも重要だと思うのだが、「もし誰かが古い考え方を新しく見せるためや、(私たちに)ばかげていると感じさせるために新しい言葉を使うとしたら、私たちは抵抗すべきです」(p25)に僕も賛成だ。日々、新たな言葉が生み出されているけど、中には抵抗しなければならない言葉もあるように思う。 

 

<3月13日> 

「サクセスコミュニケーション」より 

(1-3)「第3章 ボディランゲージを理解するには」 

 ボディランゲージを取り上げる。国によって、しぐさは共通していても、意味するものがまったく異なるボディランゲージがある。それでも私たちはある程度それを読み取ることも可能である。 

 ステレオタイプで判断してしまうと、他者に対しての価値ある体験をし損なう。ステレオタイプ化することは良いコミュニケーションにとって悪いことである。 

 

(1-4)「第4章 表情をいかに読み取るか」 

 表情とパーソナリティの関係。目、アイコンタクト、瞳・眉毛・睫毛の動き。 

 コミュニケーションにおける表情に関して。 

 

(1-5)「精神病の精神療法における不合理なもの」(G・ベネデッティ) 

 精神病、精神療法に含まれる不合理なもの。臨床家はそれに自らを引き渡す用意をしている。そうすることによって、病気から不合理なものが消えていく。患者の持つ不合理なものと臨床家の持つ不合理なものとに、臨床家自信を引き渡すことによって、患者は親密になる。 

 

<3月15日> 

今日は、ある事情のために躁鬱病に関して再確認しておきたいと考えている。最初選んだのが『人間関係の病理学』(フロム=ライヒマン)だ。この本は何かあるとまず紐解くことの多い本である。 

 

(1-6)「躁鬱病の内面的精神療法」(F・フロム=ライヒマン) 

 内面的精神療法は精神病には適用できないと言われてきたが、治療をアレンジしていくことによって分裂病への適用可能性が開けてきた。躁鬱病に関しては、分裂病で適用してきたものが通用しないこともあり、新たなアレンジをしていかなくてはならない。 

 躁鬱病者の家族傾向。しがみつくような依存と先祖たちに対する理想化。分裂病は敵意で母親と結合するが、躁鬱病では対象が漠然としており結晶化されない。誰とでも浅く広く関係を築けるが本当の人間関係は築けない。容易になされる役割同一化、ステレオタイプな報告などを検討する。分裂病を基準にして考察されている。 

 古い文献であり、躁鬱病の内面的精神療法の初期の時代の論文である。いくつかは現代にそぐわない記述もあるが、今でも参考になる個所もいくつもある。 

 こういう初期のものから学ぶのがいいと思う。シンプルな理論である。後になるほど、それが洗練されていって、複雑になる傾向があるからだ。 

 

(1-7)「躁鬱病者十二例の内面的研究」(F・フロム=ライヒマン) 

 躁鬱的性格を吟味する。躁鬱病者は口唇的性格を有すると言われるが、どのような人間関係でそうした傾向が発展していくのか。 

 文献的考察。精神医学からの考察、並びに精神分析的研究からの考察。 

 初期の両親―子供関係。主にクライン理論。スピッツ、ラドにも触れている。 

 家族的背景と性格構造。母親優位。父親は悪い親ではないが弱々しかったりする。そこから両価的感情の発展。 

 子供の初期の発達。分裂病よりも発達しているが、対人的近しさの程度はより離れている。 

 子供のその後の発達。ヨセフ物語に見られる経験。孤独とそれを悟らないこと。 

 成人の性格。成人してからも子供時代からの傾向を示す。孤立、ステレオタイプ化した関係。見捨てられること。敵意は、主要な問題としてよりも、二次的な価値を置く。 

 精神病的発作。喪失の後に来る発作とそうでない発作。構造としては、躁病発作もうつ病発作と類似である。鬱病を病気の基本的パターンとして、躁病は鬱病に対する防衛として見る。 

 罪悪感と超自我。罪悪感は目標への手段である。それは変容をもたらさない。 

 躁鬱病のさまざまな診断。診断上の諸問題。躁鬱病の防衛の破綻は分裂病至る。 

治療における諸問題。転移を中心に。二種の転移形式。 

技術的諸問題。二種の転移から導かれる技術上の問題。依存性に関する問題と自殺の関係。並びに、ステレオタイプ化の破壊。 

 反対転移。分裂病治療を好む治療者と躁鬱病治療を好む治療者。逆転移、その治療の妨害と促進。 

 治療的諸技術。躁鬱病者のステレオタイプ化した反応によるコミュニケーションの困難さが解決されるべき技術的問題点である。 

 要約と結論 

 長い論文だ。理論的考察から始まり、発達的観点、性格形成の観点から論述していき、臨床像を取り上げ、最後に治療上並びに技術的諸問題へと論を進める。 

「成人の性格」の節は、躁鬱病の病者というよりも、境界例の描写に近いと感じた。 

 治療に関する節は何かと学ぶところが多い。躁鬱病という気分や感情の障害に対して、コミュニケーションから取り掛かることなど、示唆に富む。 

 

<3月16日> 

(1-8)「第5章 空間をいかに使うか」(サクセス・コミュニケーション) 

 コミュニケーション、対人関係における地理的空間、距離について。 

 この本、3章から5章は物理的な対象を取り上げているので面白くない。もっと、コミュニケーションの中身を詳述してほしいと思う。 

 

 

<3月19日> 

(1-)「退行」(Gベネデッティ) 

 精神病的退行と神経症的退行。後者は統合に向かおうとするが、前者は自閉的傾向(交流不能性)に向かう。 

 分裂病性退行、その部分的退行は、エス―退行、超自我―退行、自我―退行とに分けて考えられる。それぞれの臨床像並びに対応。 

 退行は自我形成に役立つ。それは退歩ではなく、進歩であり、退行の中で未来と関わることである。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

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