3月18日(水):コロナ・ジェノサイド(9)~敗北か勝利か
コロナ感染にとって一番重要なのはその人の抵抗力とか自然治癒力とかだ。感染しても治癒しているという人があるのはそうした力によるものである。また、高齢者や持病持ちがハイリスクなのは、こういう人たちは抵抗力や自然治癒力が低下しているためではないだろうか。
従って、今、僕たちがしなければならないことは、手洗いやうがい、マスク着用といった予防面の処置も大切だけれど、抵抗力や自然治癒力を高めることである。予防と同じくらい大切なことだと僕は考えている。
抵抗力、自然治癒力を高めるために、例えば、栄養を取るということも重要だろうし、しっかり休養するということも必要だろう。
学校や会社が休みの間にしっかり休養を取るということもした方がいいと思う。それなのに過活動してしまうとせっかくの休みが台無しである。政府は国民に休養を取るように要請すべきだと僕は考えている。仕事や活動の自粛ではなく、休養ということにすれば国民の不満も減少するのではないだろうか。
ところがである。政府の対応は人々を不安にさせるようなものばかりである。まず経済不安がある。先行きが見えず、自分たちの生活がどうなるか分からないといった状況では、自然治癒力も抵抗力も減退するだろう。四六時中不安に直面していなければならないからである。
一人一人が希望を持つことである。絶望の中で希望を見いだすことである。そして生命感情を高めていくことである。そういうことが今の僕たち一人一人に求められているのではないだろうか。
ちなみに、政府の対応というのは、もっぱら医療崩壊を防ぐこととオリンピックに関することばかりである。
医療崩壊はすでに起きている。感染者がそれを引き起こすのではなく、誹謗中傷がそれを引き起こすのだ。つまり、非感染者の方が罪が大きいのである。
また、オリンピックは早急に延期の決定をすべきである。いつまでそこに拘っているのかと、スポーツ嫌いの僕にはそう思えてしまう。2月の時点でその決定をしておくべきだったのだ。確かに、オリンピックのことは開催国だけでは決められないという部分もあるかもしれないが、開催国が率先してその提案をしてもいいのである。
政府も自治体も、それに企業なんかもそうだけれど、批判をあまりに恐れ過ぎているように僕には感じられる。しかし、批判なんて何をやっても出てくるものである。あることをやっても批判が来るし、やらなくても批判が持ち上がる。一緒なのだ。
ある意味、批判者が力を持ちすぎているのだ。この批判者が確かな目を持っているとも限らないのである。信用すべき批判であるかどうかが批判されなくてはならないのであるが、批判は無批判に伝搬する。これが現代の病巣である。コロナ騒ぎの元凶の一つにこれがあると僕は考えている。
兵庫県だったと思う、ある個人クリニックだ。そこを受診した患者さんがコロナ感染者だと判明した。その時から、このクリニックは批判の的となったそうだ。これが医療崩壊であり、現代病の典型的な現象なのだ。
このクリニックに何の罪があるというのか。むしろコロナ感染者の判明に助力したではないか。どうして批判されなければならないのか、僕には分からない。これは僕の理解力が乏しいのか、批判者が精神病であるかのどちらかである。なぜ精神病であるかというと、論理的に現実吟味がなされておらず、ほとんど妄想レベルの批判がなされていると思われるからである。
そうしてお互い同士が争う形になる。お互いに攻撃し合い、苦しめ合う。
動物には種族内闘争に長けている種と種族外闘争に長けている種とがあるそうだ。種族内闘争に長けている種は、お互いに攻撃し合い、殺し合うので、絶滅する可能性が高い。加えて、外的に対して弱くなるということらしい。
もし、人間同士が争い合えば、外敵に弱くなるということである。つまりこの場合ではコロナウイルスが外敵ということになるのだけれど、我々が潰し合いをすればするほど、人類はコロナに敗北していくわけである。
しかしながら、僕の今の言葉に対して次のような反論をする人もあろうかと思う。それは動物の話であって人間の話ではない、と。動物に見られる現象をそのまま人間に当てはめることはできないのではないか、と。
この反論には一理あることは認めよう。しかし、I・アイブル・アイベスフェルト博士によれば、そういう批判をする人は「比較」ということをよく知っていない人であるという(雑誌『アニマ』1976年11月号のインタビュー参照)。
僕はアイベスフェルト博士の意見に賛成だ。種族内闘争に長けている動物と、批判して潰し合う人間とを、僕はある意味では「比較」したことになる。この比較が正しい比較であれば僕の言っていることが正しくなるし、それが正しくない比較であれば批判者の言っていることがより正しいということになる。あいにく、僕は比較の手段を有していないので、それ以上のことは言えない。
ところで、タイだったと思うのだけど、サルがいっぱい生息している町がある。観光客が激減して、サルたちはエサに困っているそうだ。一匹のサルが食物を手にすると、大群がその一匹めがけて殺到する。そういう光景をテレビで観た。このサルたちの光景と、トイレットペーパーを買い占めようとする人間たちの光景と、僕には同じように見えてしまうのだ。
いずれにしろ、人間もやはり動物なのだ。他の動物たちとの間にそれほど差がないかもしれない。人間が人間らしさを喪失すればするほど、人間の行為は他の動物と似てくるだろうと思う。
奪い合いをするか分け合うか、潰し合うかともに生きるか、僕たちに突きつけられている課題ではないだろうか。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)