3月17日(日):地元愛をけなしてはいけない
今日は始まったばかりだけど、これを書いて残しておこう。昨夜はほぼ徹夜で書きものをしていた。その流れで、朝の時点でこれを書いている。
先週、兄と会ってから、どうも兄が口出ししてきているように思えてならないのだ。まあ、それはいいとしよう。僕もある程度そんなことになるんじゃないかと覚悟はしていた。
兄は自分のお店を持っていた。フランス料理店だ。京都の北の方で店を構えていた。長くは続かなかった。僕はあそこは場所がいささか不便だと感じていて、そのために客が来にくかったのだろうと思っていた。
今朝、父から聞いたところでは、そうではなかったらしい。ある時、大阪から兄の店に食べに来た団体客がいた。地元の主婦が団体客よりも先に食事をしていたそうだ。兄はこの団体客に「わざわざ遠くからこんな辺鄙な田舎に来ていただいてありがとうございます」といったようなことを言ったらしい。この主婦は兄のこの言葉をしっかり聞いていたのだ。後日、この主婦が兄の店を攻撃してきた。この店で食べるのは止しましょうといったビラを貼られたりしたそうだ。
そういうことだったのか、地元を侮辱したのか。それは地元民が怒るだろうな。
僕は高槻で開業して、高槻の悪口は言った覚えがない(と思う)。どちらかと言うとこの高槻が好きで開業したところがある。
でも、高槻が好きで開業したと言っても、余所者には違いない。それで開業した当初は、高槻のイベントに協賛したものだ。地元民に、あいさつ回りなんかはしなかったけど、少なくとも受け入れられるようなことはしなければいけないとは思っていた。
まあ、高槻というところはイベントごとがたくさんある。1月はハーフマラソン、2月(だったか3月だったか)には天神祭り、5月にはジャスストリート、8月には高槻祭り、10月頃には食べ歩きのイベントもある。このうち、マラソンとジャズストには協賛をした。最初の数年間だけだが、欠かさず協賛した。
ジャズストの協賛を止めたのは、ひどい年があったからである。協賛するとパンフレットに公告が掲載されるのだけど、そのパンフレットが当日になっても完成しなかったということがあったのだ。確か、それを最後に協賛を止めたのだ。まあ、以後、ジャズストには批判的になっている。だからと言ってイベントそのものを中止すればいいとまでは言わない。何か別の形のイベントにしてもいいかもしれないとは思っている。
いかんいかん、ジャズストの話ではない。一応、祭りもマラソンも、僕は反対はしない。そういうイベントが全くないというのも、地域活性の観点からして、よろしくないだろう。
要は兄のその言葉である。不便で辺鄙な場所でも、そこに長く住んでいると愛着も生まれてくるものである、住めば都とはよく言ったものである。なんでこんな辺鄙で不便なところに住み続けるのだろうと、外部の人間からするとそう思ってしまうことがある。テレビなんかで一軒家とか秘境で生活している人とかが放映されたりしているけど、その人たちにとってはそこに愛着が生まれているものである。
その場所に愛着が生まれるというのは、そこが自分の居場所であると感じられるということである。交通の便がどうのこうの、生活のパイプラインがどうのこうのといった問題ではないのだ。心理的な問題であって、実用性や合理性の問題ではないのである。その地はその人の一部なのである。従って、地域の侮辱はその地域の人そのものの侮辱につながるのである。
また話が逸れた。要は、兄があの言葉を発したのは、兄がそのこと(住民にとっての地元愛)を知らないからというのではなくて、ある種の「特権意識」なのだと僕は思う。僕から見て、あの兄のもっとも嫌味な部分である。そこがなければ兄とも付き合えそうな気もするのだけど、どうも兄からはそれを感じ取ってしまうので、ついつい敬遠したくなってしまうのだ。
しかしながら、そういう傾向は父にもある。時々、父の発する言葉には「特権意識」のようなものが感じられてしまう。
例えば、今、世間を賑わせているピエールの事件なんかを見ると、馬鹿なやつだとかどうしようもないなとか、あいつももう終わりだなといったニュアンスのことを父が言う時がある。
個人の思想なので、僕はそこに口出しはしない。父には父の認識があり、思想がある。それが僕の思想と反しているからといって、そこを訂正しようとは思わない。ただ、その思想の根底にあるものに僕は嫌悪感を覚えるのだ。
父と兄にそれが共通してあるように僕は感じているのだけれど、恐らく、僕にもそれがあるだろうと信じている。知らず知らずのうちに僕から発せられていることだろうと思う。僕が自分の中から放逐したい傾向である。
特権意識を持ってしまうと何が起きるかということであるが、僕はそれは共感性を損ねると思っている。共感能力を妨げるものだと考えている。
度々ピエールさんを取り上げるのは恐縮だけど、ドラッグに手を染めてどうしようもない奴だと批判するのは簡単である。でも、自分も彼のような立場になったら同じことをしないと断言できるだろうか。どうして自分だけは特別正しいなんて意識が生まれるだろうか。それよりも、彼がどこかで道を踏み誤ったとしても、それを気の毒に思わないのだろうか。
さらに言えば、ピエールさんも人の子である。親がいるのだ。その親のことも気の毒に思うことはないのだろうか。
特権意識に囚われてしまうと、共感的に見ることが難しくなると僕は感じている。
本当は自分たちは特別でもなんでもなくて、たまたま道を踏みはずすような分岐点に直面することなく過ごしてきただけかもしれないのだ。あるいは、そういう時にたまたま道を示してくれる人に出会っただけであるかもしれないのだ。
兄も、「本当に今日は遠方からわざわざ足を運んでいただいて、たいへん感謝しております」とだけ団体客に言っておけば、あの地元の主婦を敵に回すことなんてなかったかもしれない。ああ、このお店はそんな遠くからもお客さんが来るんだななどと思ってもらえたら、もしかするとこの主婦は強力な味方になってくれていたかもしれないのだ。地元が地元民にとって自分の一部であるから、その一部分にいい店があるということだけで、自慢になるのである。
特権意識もそうだけど、何事も口が災いの元だ。僕もゴチャゴチャ言わないで、ボロが出る前にここいらで筆を置こう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)