3月15日:時間意識

3月15日(木)時間意識

 

 昨日は実りのない一日を過ごした。寒気がして非常に困憊していたのである。一昨日の「遠足」でもYさんからしきりに「疲れてない?」と訊かれたが、確かに疲れてはいた。特に目がしんどかった。疲れていてもYさんにはその姿を見せる気にはなれなかった。多少、無理をしたかもしれないけれど、昨日はその反動が一気に襲ってきたという感じである。

 昨日は、ダラダラと作業するよりかは、やることだけやって、さっさと休んでしまえば良かったと思っている。それで昨夜はしっかり眠って、今日は早くから活動している。7時半には勉強を始めている。なかなか今日は具合がいい。やっぱり、速やかに休息を取る方が正解だと思った。

 今、時刻は朝の9時。8時半には職場に入って、あれこれと雑用をしている。今日は午後から外出する予定をしているので、午前中にできるだけのことはしておこうと思う。そのために、昨夜は今日の予定をしっかりと立てた。時間を有効に使うためにはこういうことをした方がいいだろうと僕は改めて感じている。何を何時までにするとか、今日はこれをどこまで進めるかとかいうことをしっかり計画を立てておいたのである。こういう計画は一日の行動指針にもなるものだ。

以前から、大雑把な計画を立ててやってはいたのだけれど、今回はさらに詳細に至るまで計画を立てた。ノート一ページ分の、そのリストと言うか、工程表を書き上げた。あまり細かすぎると、強迫的になりそうなので避けていたのだけれど、それほど悪い案ではないかもしれないと思い始めている。

 一つ一つをこなしていく。それも一度に一つずつだ。ちょうど砂時計の砂が細い管の部分を通過していくように、少しずつ終わらせていく、そういうイメージで取り掛かっている。

 年と共に時間を意識して生きるようになった。そういう感じがしている。いや、むしろ時間に対する考え方、見方が若い頃よりも変わってきたと言う方が正しいかもしれない。僕たちはやはり限りある存在だ。人生は有限である。僕の人生もいつか終わりが来る。その終わりを最近はよく意識するようになっている。あらゆる物事には終わりがあり、失われる。その運命から免れることはできない。仮にできたとしても、そういうのはかなり特別な場合だけだ。人も物も、外的には失われていく存在である。外的にはと述べたのは、それらは僕の内側においては保存可能であるからである。そして僕自身もまた失われる運命を担っている。この運命を僕は否定しない。僕の終わりがいつ来るか分からない。今の所、僕の存在はある程度保証されているが、明日にでもそれが来る可能性がまったくないわけではない。そういうことを意識するようになると、僕はもっと生きられる時間を大切

にしたくなっている。

 昨年の3月11日に、多くの人が亡くなった。災害のためである。亡くなった人たちは3月10日の時点で、自分の終わりを予期していただろうか。そのための準備をしていただろうか。そういう人もいたかもしれないけれど、多くは3月11日以後の自分の生を当たり前のように信じておられたのではないだろうかと僕は予想する。人生の終わりは、案外そういうものなのかもしれないと僕は思う。

 ソクラテスは自分は死を恐れないと語っている。なぜなら哲学とは死の訓練をすることであるから、つまり死の準備をすることだからということを述べている。その言葉は幾分比喩的に考えなければならない。自殺の準備をするというような意味ではない。以前の僕は、これは自分の死は不測の事態であるから、そういう不測の事態について考えることだというように理解していた。今は少し違う。自分の有限性を自覚することだというように捉えている。ゴールが意識できるからレース展開が築けるものである。

 明日、それが訪れても悔いないように、今日を僕は生きる予定をしている。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

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