3月15日:僕が厳しいことを言う理由

3月15日(金):僕が厳しいことを言う理由

 

 基本、金曜日は仕事を入れないのだけれど、午前中は予約を入れた。いつも金曜日に来てくれる人である。今、金曜日に入れているのはこの人を含めて二人だけだ。徐々に金曜日はフリーにしていく。

 午後から、サイトの原稿を書いて過ごす。A4で10枚ほど書いたのか。一気に書いた。夕方、動画広告の件で業者と会う。これは今日、急に決まったのだ。いいってことだ。こういう用事のために金曜日を空けておきたいのだ。

 動画を3本作ることになっていた。1本はもう決定しそうである。あと残り1本をどうするかで話し合う。僕の中にはいろんなアイデアもある。しかし、現実化する気力が今はない。頭の中でプランがグルグル渦巻いているだけで、それを形にしていくだけのエネルギーが今はない。

 業者と打ち合わせの後、2時間ほど本を読んで過ごす。目が疲れている上に、なんだろう、気分が悪い。パソコン画面の見過ぎか。

 

 夢も毎日のように見ている。せっかく夢を見たんだから夢日記もつけなきゃとは思うのだけど、今はそれに割く時間と労力がない。

 昨夜から今朝にかけて観た夢は、僕が授業を受けるというものだった。学校のような場所で、多分だけれど、中学時代に同じクラスだった人が登場していたように思う。いや、目覚めてからその人のことを思い出したのかな。すっかり忘れていた人だ。なんとなくその人が登場していたようにも思うのだけど、はっきりしない。夢で、僕は何かの発表をした。先生に当てられたのかどうか不明なんだけれど、クラスの中で、立って何かを言った場面を覚えている。僕は何かの発言をそこでしたが、みんなの反応は普通だった。普通だったというのは、その発言によって議論が沸騰したりとか、場が盛り上がったりとか、みんなから注目されたりとか、ウケたとかいうことがなかったということだ。淡々とした感じだったし、それがそんなにイヤな感じもしなかった。

 この夢は何だろう。何となく僕自身の今の気分を表わしてくれているようにも思う。僕には言いたいことがたくさんある。言語化したいこと、文章化したいことがたくさんある。淡々とそれを聞いて、あるいは読んで欲しい。いい反応でも、今は欲しくない。それらの反応に気を取られ、意識が奪われ、惑わされてしまいそうに思うからだ。

 

 今日の業者さんが言っていたな。サイトの方を見ると僕が厳しい人のように見えると。幾分かは故意にそうしている。ブログの方では僕の人柄が出ていると。それはそうかもしれない。ブログの方は何の準備もなく、いきなり書き始めるのだから。

 厳しいことを言うのは、ある意味でそこで篩にかけているのだ。生半可な気持ちで受けに来る人をそこで振り落とすわけだ。そういう気持ちで受けに来られても、受けに来た人にも損失を生み出すので、お互いに利益にならないと思っている。

 僕も臨床家のはしくれである。僕なんかよりも優れた先生方も大勢いらっしゃる。知識や経験がもっと豊富にある先生たちも多いことであろう。ただ、僕は治療に潜む「暴力性」に関しては、人一倍認識しているつもりである。

 身体医学の治療であれ、心の治療であれ、治療行為には暴力の要素がついて回るのである。同じことは教育においても、また養育や育児においても、福祉や援助職においても言えるのである。どんなに人助けの仕事であれ、崇高な仕事であれ、あらゆる職種には暴力の要素が必ず付随してくるのだ。他の人はどうか知らんが、少なくとも僕はそういう暴力の要素があるということの認識はしている。

 クライアントはまず臨床家の都合にあわさなければならない。僕なんかは割とクライアントさんにいつがよろしいかと尋ねるのだけれど、必ずしも希望に沿えるとは限らないし、そういうことをしない臨床家もあるだろう。病院なんかはかなり一方的にいついつに来てくださいということを決定したりする。

 その臨床家にお願いすれば、否応なしにそこのクリニックのルールに従うことを求められる。反論はできない。そして、その臨床家を信用することを要請される。よく、信用できるカウンセラーがいないなんて嘆く人を見かけるけど、違うのである。そのカウンセラーが信用できるかどうかではなく、クライアントがそのカウンセラーを信用することを求められるのである。自分が選んだカウンセラーをクライアントは何があっても信用しなければならなくなる。この信用がなければ失敗に帰する可能性が高まるからである。

 そして、必ず満足が与えられないのである。クライアントがカウンセリングを受けてもそれだけで自分の望んでいるものがすべて手に入るわけではない。一部は満たされることもあるかもしれなけど、大部分は満たされないまま終わる。そして、それを当然のこととして受け入れることを患者やクライアントは求められるのである。

 求められるというのは穏やかな言い方である。時に、それは強制されるのである。この種の強制は教育場面でも、養育場面でも、福祉や援助の場面にも現れるのである。そして、この種の強制がまったくなされないような所は、まず成功しないのである。というのは、クライアントや患者、被援助者、利用者らが好き勝手なことをやりだすと、それの対応に追われることになり、肝心の業務や作業に支障をきたすからである。臨床家や専門家が余計な作業に追われないために、そして専門の仕事に専念できるようになるためには、なんらかの枠組みを強制しなければならなくなるのである。僕はそれが強制であることを認識しているつもりである。そして、それが暴力の要素を持つ(暴力そのものではないけれど)ことをも認識しているつもりである。

 まあ、いつかこの話はサイトの方で展開しようと思うのだけれど、治療やカウンセリングを受けるということは、そういう暴力の要素に晒されること、そういう場面に飛び込むことを意味しているわけでもある。受ける方にも相応の覚悟が必要なのである。そういう覚悟を欠いた状態で、あたかも軽い気持ちで受けにきたとしたら、まず、相当な痛手を負うことになるかもしれない。最初からそういう人を篩にかけたいのである。いたずらに人を苦しめたくないのである。そのためには若干の厳しい言葉も使わなければならないのである。

 以上、僕がなぜ厳しいことを言うかの返答である。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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