3月12日:褒められるということ

3月12日(月)褒められるということ

 

 今日は月曜日で比較的暇な日である。ここ最近、月曜日はこんな感じである。月曜日に決まって来るという月曜レギュラーのクライアントが今は少ないので、どうもよくない。もっと毎日均等にならないものかと密かに考えている。もっとも、そういうのはどの職種にもあるのかもしれない。

 暇だと言っても、雑用がたくさんあって、実はそれらに追われている毎日である。逆に言うと、月曜日みたいな日がある方が嬉しいのではあるが、雑用するよりも面接している方が僕は好きなのである。こうして雑用が後回しにされてきて、今みたいになっているのではあるが。

 サイトの更新も怠り気味である。「夢の旅」シリーズも<夢44>で停まっていた。しばらく触ってないなと思って油断していたら、随分前から更新していなかったのだなあと思った。昨日、それで慌てて<夢50>まで公開したけれど、僕のパソコンでは既に<夢70>を超えているのである。イカンイカン、これは順次公開しいかなければと思っている。サイトの方の原稿もたくさん未公開の分が溜まっている。これも何とかしなくてはと思っている。

 これらに加えて、資料の整理、収集もあるし、職場内の大掃除もある。勉強したい事柄や、調べておかなければならない事柄もたくさん抱えている。上記のようなことはすべて面接以外の作業である。これらに加えて、日々の面接やそれに関した仕事があるわけである。なかなかたいへんである。

 これらをしても、僕の場合、誰も褒めてくれないのである。それで結構である。クライアントの中には上から褒められたいと願っている人が何人かおられる。

僕も若い頃はそういう願望があった。それがいつの間にか、人から褒められることを欲しなくなった。僕のようなひねくれ者は、褒められるとウラがあると睨んでしまうので、タチが悪い。恐らく、僕は褒められるということに慣れていないのだろう。だから褒められると、何か魂胆があるのではと疑ってしまうようだ。だから、褒められたいと望む人は、褒められて良かった経験をお持ちのことだろうと思う。

 まあ、それはそれとして、褒められたいと思わなくなったのは、単に次のことによるものである。僕が上の人を必要としなくなったというだけのことだ。褒められたいということで、しかもそれ一つの動機で何かをする人がいるとすれば、その人は常に上の存在を必要としているということである。この「上の存在」というのは、根底を見れば「親」である。この「親」は現実の親でなくてもよい。親代わりのような存在ということである。褒められることを欲している人は、だから、親を求めているのだということが言えそうである。そして、いつまでも親を求めるということは、その人は「子供」の立場から抜け切れていないということになりそうである。

 僕がいつ頃から褒められたいと思わなくなったのか、正確には覚えていない。20代の半ばくらいまではそういう感情はまだあったように思う。それ以後は、褒められることよりも、自分に与えられた仕事をうまくやり通すということの方が僕にとっては中心になっていったように思う。どこで変化があったのかは不明確であるにしろ、その時の変化は、僕が「子供」役割から抜け出したことを意味するものだと思う。もしかしたら、自分でもよく分からないくらいにゆっくりとそこから抜け出していったのかもしれない。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

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