3月1日(月):功利主義
昨日、琵琶湖マラソンが開催された。コロナ禍で無観客で開催されたのではなかったかな。また、外国からの招待選手もかなり少ないはずである。沿道の応援も自粛が求められていたのではなかったかな。そして、今回の開催が最後の琵琶湖マラソンということであるらしい。
僕はもうマラソンとか陸上競技には興味がない。どうでもいいと思っている。それでも少しだけテレビの画面を通して見たのであるが、異様な光景だった。僕はゾッとした。
ペースメーカーという人たちが先頭を走っているのである。選手たちはそのペースメーカーの後ろを走っている。この光景を見て、これって競技なのかと疑問に思った。と同時に、こういうことを考える人たちを恐ろしいと思った。
確かに、今回の琵琶湖マラソンで日本記録が生まれた。しかし、この記録は、最初にペースメーカーがペースを整えてくれたことによるところが大きいだろう。僕は限りなく反則に見えてしまうのであるが、いかがなものだろうか。
そして、ペースメーカーを配置するという企画が、記録を更新させるための大会であったことがありありと見えてしまうのである。記録ありき、結果ありきで開催された大会だったような印象を受けるのだ。マラソン競技で生まれるドラマなんかそっちのけであるかのようだ。記録さえ出たらいいという感じがしてしまうのだ。
そこにあるのは功利主義ではないか。というか、その主義しか僕には感じられないのだ。もちろん、優勝した選手にはそれだけの実力があるわけであり、そのために相当厳しい練習も積み重ねてきたはずであるが、結果を出すためのお膳立てを主催者側が用意するというのは、どうも不愉快である。実力勝負の世界ではなくなっているように僕には見えてしまうのだ。
まあ、こういうのは氷山の一角のようなもので、スポーツの世界は腐敗していると僕は思っていて、他にもいろんなことが起きているはずである。ペースメーカーを用意して選手の実力を発揮させるのと、ドーピングをして実力を発揮させるのと、如何ほどの差があるだろうか。
僕の他にもあの光景に違和感を覚えた人もあるだろうと思う。選手たちの先頭を選手ではない人たち、つまりペースメーカーが走っている光景を異様だと感じた人がいるだろうと思う。僕だけではないと信じたい。
オリンピックもそうなっているのだ。あれはもうメダル獲得数を競うだけの大会のように思えてならない。期間中、金が何個、銀が何個、銅が何個という報道をイヤというほど耳にする大会である。出場することに意味があると言われても、結果を出さないと意味をなさないかのようにそうした報道からは受け取ってしまうのである。功利主義に陥るくらいなら止めてしまった方がいいと僕は感じている。
しかし、結果を出すということに関しては僕は反対はしない。僕自身は結果ということにこだわりがないけれど、それに拘りたい人は拘ってよいことである。ただ、次の点だけは言っておきたい。
その結果が誰のためであるかということである。
スポーツであれ、文芸であれ、その他仕事に関する事柄であれ、結果を出すことのできるだけの能力や実力を持っている人は結果を出すことに懸命になっていいことである。ただ、その結果が権力のため、強者のためであってはならないと僕は考えている。弱者や困窮者のために結果を出さなければならないと思うのだ。
オリンピックが好きになれないのは、その結果(メダルを獲得することなど)が、「国のため」という色合いを帯びてしまうところにある。国のために出した結果という感じがしてしまうのである。弱者や困窮者、マイノリティのための結果でなければ、僕は受け入れる気がしないのである。ましてや自分のための結果なんてもってのほかである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)