2月8日(火):逍遥学派のように
今日は定休日だ。定休日はともかく歩く。体を動かさないといずれ体が動かなくなるからである。実際、その兆候が見え始めている。週に一日くらいは体を動かす日を作らないと、ますます体がダメになっていく。
そして、逍遥学派のように歩きながら思索する。今取り掛かっていることのあれやこれやを考えながら歩く。しかし、考え事に没頭してしまうと赤信号が見えていない時がある。今日も危なかった瞬間があった。考え事もほどほどにしないといけないようだ。
歩くときは、一応スマフォを持って出る。万歩計がついているのと、時計代わりとである。最近は写メを撮る。景色とか、街中で見かけたモノなんかを撮影する。何かに使える時が来るかもしれないからである。今日も何枚か撮影した。
この写メというやつであるが、最近ではインスタ映えとか言ってすぐに写メに撮る人が多いようだ。あの行為は僕は賛成できない。
確かに僕も写メを撮ることがある。昔なら記念写真といったところだ。いい景色なんかを見ると写真に収めておきたくなる。後で見直すためであり、また、確かにそこに行ったという証拠のためでもある。本当は写真に撮らなくてもいいのである。その景色をじっくり眺めて、その時にしっかり心の中に収めればいいのである。
写真に撮るということは、心の中に収める作業の代わりをしていることになる。心の中に収める前に、写真に収めて、それで良しとしてしまっていることもある。その場にいて、現地にて、実際にその光景を目の前にして、それをじっくり体験する余裕がこうして失われるのかもしれない。
だから、すぐに対象を写メで撮るということは、対象を心に収めることもせず、対象を体験することもしていないのではないかと、僕はそう思うのだ。そういうゆとりを写メが奪うのだ。写メなんかのツールが便利になればなるほど、僕たちはゆとりを失うのではないか。対象をじっくり体験せず、写メに収めて片付けてしまっていないだろうか。
インスタ映えってのも不思議な現象だ。インスタ映えしている場所があるとしよう。誰かがインスタに上げている。それを見て楽しんだらいいのに、自分も同じ場所に行って、同じアングルで写メに撮り、そして自分のインスタに上げたりする。こうなると誰のインスタも同じものになるんじゃないかと思うのであるが、同じであるということがこういう人には大切なことなんだろう。
ともかく、くだらないツールが人気を博していたりする。インスタグラムにしろ、ツイッターにしろ、あるいはラインとか、そういうものが良いとは僕には思えない。何がいいんだろうね。
ラインとかで、相手に既読がつかないと落ち着かないという人もある。僕が誰かにメールでも送るとしよう。僕がメールを送るかどうかは僕の自由である。送信してもいいし、しなくてもいいし、僕はそのどちらも選べる。
同じように、僕のメールを相手が読むかどうかは相手の自由であり、相手が選択する領域である。相手が読まないという選択をしても、それは僕とは関係がないのである。いちいち傷つくことの意味が不明である。
もし、僕が大切な要件を相手に送信したとしよう。相手がそれを読まなかったとしよう。それで相手が困ることになっても、それは相手の自己責任である。後から知らなかったなどと言われても、こちらは送信したけれどそっちが読まなかっただけということである。
まあ、それはいいとして、ああいうツールは自他の境界を不鮮明にする効果があるのかもしれないな。
あれやこれやと考えながら歩く。今日は11000歩ほど歩いた。まあ、いいことにしよう。それに、最後の方は膝が痛み始めていた。無理は禁物だ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)