2月6日(火):一枚のハガキ
今日は本当なら定休日なんだけど、クライアントの都合で予約が入っている。主に水曜日に来られる人なんだけど、明日は都合が悪いらしい。
午前中にその一件の仕事をこなす。病み上がりということもあり、体調も万全ではないし、今一つ集中できないでいる自分を発見する。良くないことだ。
せっかく職場に来たのだからと、何かと気になっていた作業をこなした。
まず、NTTに電話だ。近いうちにこれをしなければと思っていたことをやった。アイ・タウンページから抜けるということだ。4月からは出さない。担当者によると、1000件くらいのアクセスはあったようだ。見た人はびっくりしただろう。何も書いていないページだから。そこから僕のサイトに入ってくれたとしたら、さらにびっくりしたことだろう。こちらはゴチャゴチャと書きまくっているのだから。
昨年、NTTの不義理な行いに憤慨した僕は、これでやっとNTTと縁が切れることで清々した気持ちになる。こうして一つ一つ軛を終わらせていこう。
軛を終わらせようという矢先にIT業者から営業の電話がかかる。いい加減にせえ、という気持ちで断る。
さて、その後、僕は何かを書こうとする。内省録のようなものだ。昨日一日休んでいて、いろいろ考えたことある。そういうことも含めて書いて残したくなった。
でも、今月はその他にやることがある。それを中途放棄するわけにもいかない。書きたい気持ちを押さえて、今日はそちらをやることにする。
今月、書架の本を100冊減らすという目標を立てている。減らすというのは、家に持ち帰るということだ。それで何を持ち帰るかをいろいろチョイスしているところである。キリスト教関係の本はもういいだろうと思い、書架から引っ張り出す。
懐かしい。しばらく開くことのなかった本たちだ。パラパラとページをめくる。一時期はキリスト教のことをよく勉強したものだったが、その頃のことを思い出したりもした。
そうこうしていると、本の中からパラリと紙片が落ちた。一枚のハガキが出てきた。何だろうと思って見てみる。
いつのものだったか記憶が曖昧だが、ハガキを読んでいると、なんとなくそういうことがあったなと思い出す。
当時、僕はある講義を受けようとしていた。それで申し込んだのだと思う。しかし、他の予定がその日に入りそうなので、聴講できないかもしれないと僕は伝えたのだ。その返事のハガキだった。
ハガキを書いた人は、僕が出席できないかもしれないことを残念に思っているようで、でも、もしも出席できるようになった時のためにと、講義会場までの道筋を丁寧に説明してくれていた。僕は泣きそうになった。
すっかり記憶から抜け落ちていたことだけど、そんな些細なことでも僕のためにしてくれた人がいるのだと思うと、無性に泣けてきたわけである。いろんな人に迷惑をかけ、気を遣わせてきたのだなと、改めてそう思う。僕のためにやってくれたことなのに、当の僕自身がそのことを忘れているのだ。そんなことが他にもどれだけあるだろう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)