2月6日(木):ゴーストライター
1960年代70年代の洋楽が好きで、1930年代から50年代のジャズが好きで、18世紀のバロック音楽が好きという僕にとって、現代音楽や流行の歌手はまったく無縁のものだ。だから「現代のベートーベン」氏なる人のことも今日初めて知ったというくらいである。
この「現代のベートーベン」氏であるが、彼にゴーストライターがいたということで問題が起きている。それよりも、この事件、我々がいかに音楽について無知であるかということをも露呈している観があるように思う。
「現代のベートーベン」氏は、10歳でベートーベンのピアノソナタを全曲弾きこなし、35歳で聴力を完全に失い、それから絶対音感だけで作曲しているという話である。この話を聴いたら、「ふーん、すごい人もいるものだな」くらいは思うだろうけれど、その曲は聞きたいとも思わない。絶対音感だけで作曲するなんて、あまりにも雑な曲作りだ。そんな作品はあまり期待できない。
まず、本当の音楽家、作曲家は自分の楽器を手放さないという事実がある。館野さんのように、右手が使えなくなっても、やはりピアノは手放さないのだ。頭の中だけで作曲しても、その人はやはり自分の楽器で演奏してみるだろう。聞こえなくても、弾いたときの感触によっても、自分の作った曲を知ることもできるのだ。
だから、聴覚を失った作曲家たち、ベートーベンにしろスメタナにしろ、やはり楽器は使用していたのだ。音楽家が楽器を手放すなんてことはあり得ない話なのだ。
また、ハンディキャップを背負った音楽家は、それだけ周囲の協力者が必要になるはずなのだ。バッハ演奏家で有名なヴァルハは盲目だったけれど、彼の家族が一生懸命彼のために楽譜を読んであげたりしていたのだ。だから「現代のベートーベン」氏が、一室に閉じこもって、瞑想して曲を作ったなんてのは、つまり協力者なしに作曲したなんて話は信用できないのだ。あまりに雑すぎる。
推理小説家のエラリー・クイーンにはゴーストライターがいたそうだ。けっこう有名な話らしい。中期から後期の作品には代筆者が書いたものがあるそうだ。その中の一人は、のちにSF作家として世に出た人だ。
クイーンと言えば、彼らの編集する雑誌「EQMM(エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン)」があるが、あの雑誌は過去の埋もれた傑作を掘り起こすことと、新人のための作品発表の場とする目的があった。事実、後に大成する推理作家の多くがEQMMでデビューしていたりする。
そういうクイーンだから、ゴーストライターがいたとしても、どこか新人の作家に執筆の機会を提供していたようにも思われる。
同じゴーストライターを使うのでも、利己主義と利他主義の違いは歴然である。「現代のベートーベン」氏も、無名の作曲家に作品発表の機会を与えてきたというのであれば、多少なりとも許せるのだが、テレビで見る限り、それほど志の高い人でもなさそうだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
こういう事件があったな。この「現代のベートーベン」氏であるが、結局、我々はこの人の編み出した筋書きに従ってしまったのだ。彼が悪いのではない。これは彼の妄想なのだ。そうではなくて、我々の無知が問題を引き起こしているのである。僕はそう思う。
(平成28年12月)