2月5日(火):食品廃棄論争
僕は大学生の頃、あるスーパーでバイトをしていた。店長がキャベツを仕入れる。僕はそれを一個一個ラップにくるみ、重さを測り、バーコードシールを貼って、売り場に並べる。加工日はその日である。
何日かすると、店長がそのキャベツを売り場から下げる。傷みが見え始めるからだ。僕はラップをはがし、傷んだ部分をめくって、再ラップして、バーコードシールを貼り、売り場に並べる。加工日はその日である。
これは何度か繰り返される。だんだん再加工の間隔が短くなる。傷んだ部分を取り除くので、だんだん小さくなるし、値段もそれだけ安くなる。その都度、その日付が加工日となる。
ありがたいことに、お客さんは入荷日と加工日の違いを理解していない。両者を混同する。加工日が今日の日付だから、それだけで新鮮だと勘違いしてしまう。一度もそれで苦情なんて来たことがない。
そして、さすがに売れないとなると、そのキャベツは総菜や弁当の食材に回される。食品はこうして再加工され、再利用された。それが当然のことだった。
何年か前に伊勢の名物の「赤福」の問題があった。あれは製造日の偽装と言われていたように記憶しているけど、やっていることはスーパーのキャベツと同じことだ。売れ残りの商品の中身を点検して、問題がなければ再包装して、今日の日付で売り場に並べるのだ。それで食中毒でも起こしたとか言うのなら話しは別なんだけど、そういう問題が起きたわけではなかったはずだ。
普通に再利用しただけなのに、偽装問題にされてしまったというケースであったように僕は理解している。
こういう問題を指摘されないためには、売れ残った商品は廃棄処分するしかない。古い分はすべて処分しました、売り場に並んでいるのはすべて新しいものばかりです、って状態を維持しなければならない。
現に、販売店はそれを徹底してやってきた。コンビニなんかひどいものである。
コンビニでも僕はバイトした経験があるけど、賞味期限が、日付だけでなく時間のレベルで記載されていたりする。それを超えて販売してはならなくて、現在ではレジが読み込まないといった工夫がなされている。
一度、賞味期限時間が近づいたら値引きして売り切ってしまってはどうかと提案したことがある。却下である。理由は、それをすると定価で売れなくなるということと、一店舗だけでそれをやるわけにはいかないということだった。
半ば強制的に廃棄処分しなければならなかった。勿体ないと言えば勿体ないけど、廃棄食品を勝手に横流しするわけにもいかないし、それに従うしかなかった。
世間の風潮は、とにかく廃棄処分するという方向に向いていた。それが今年になって、特にこの節分において、それに反する風潮が生まれている。節分の海苔巻きの廃棄が問題になっている。
赤福の件で、そのように仕向けたのが我々であることを忘れて、今や、手のひらを返したように、勿体ないなどと騒いでいる。愚かなのは我々である。今になってそんなことを言うのなら、赤福餅をあそこまで責めなければよかったのだ。むしろ、そこまで再利用して立派なことだと称賛すればよかったのである。世論がそれに厳しくするので、企業は廃棄処分を強要されてしまうのだが、強要したのは自分たちであることを忘れて、こんどは廃棄処分していることに目くじら立てている。
これは要するに、なんでも事件になってしまうということではないだろうか。再利用しても騒がれ、廃棄処分しても騒がれるのだ。そして騒ぐ我々の側の問題であるかもしれないのだ。食品の問題や企業・販売店の問題とは僕には思えない。
最近の食品廃棄論争は、我々の問題の何かが表出されているのではないかと、僕にはそのように思われてならないのだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)