2月4日(金):定義の問題
サイト関係の諸々の事柄が前に進んでいるので少し一安心だ。この停滞感を打破したかったのであるが、この数日でかなりのことが前に進んだ。割といいペースで物事が運んでいる。それによって何か変化なり効果なりが見られたかと問われると、それは今のところまだ無いとしか言えないのだけれど、動きがあれば変化が続くと信じている。
国の統計調査用紙も記入して投函した。
これは昨年届いたらしいのだけれど、覚えがないのだ。5月から6月ころに記録用紙が配達されたということらしいのだけれど、見た覚えがない。ゴタゴタしていた時期だったので、他のごみと混ざって捨ててしまったのかもしれない。それで昨年末、通知の手紙が届いて、先日、役所に行って記入用紙をもらってきたという次第だ。それの記入と投函も済ませたわけだ。
細かな雑用もたくさん抱えているけれど、日々、一つ一つ処理していこう。
身辺整理も少しずつ続けている。職場にもモノが多い。何でも保存したがるところがある。いつそれが必要となるかと思うと捨てられなくなるのだ。それらは捨てるか、あるいは別の形で保存するか、なんらかの形で処理しなくてはいけない。そうして少しずつモノを減らしていく。
コロナの影響もあって、仕事は激減しているのけど、僕自身はヒマにはならない。今日も朝4時ころに目覚めて、それからずっとなんらかの作業をしている。
家のパソコンでサイト作業をできるようにしたので、ブログも欠かさず書くことができている。ブログは家のパソコンで書いて、公開するというパターンが定着しつつある。本当は書いてから2,3日寝かしておきたいのだ。そうしてもう一度読み直して、文章等を校正して、それから公開といきたいのだけれど、修正は後からでもできると開き直り、書いてすぐに公開するようにしている。溜めると忘れてしまいそうだ。
夜は定義に関して考えていた。たとえて言うと次のようなものである。
(命題1)森林とは木がたくさん生えている土地である。
(命題2)一本の木は森林ではない。
この二つの命題は矛盾も背理も見られない。一本の木は森林を構成しているけれど、それ自体は森林とは呼ばれない。ところが、
(命題1)森林とは木がたくさん生えている土地である。
(命題3)一本の木は森林である。
は矛盾している。この矛盾を解消するにはどのようにするとよいか。どういう操作をすればこの矛盾を解消できるだろうか。そういうことを延々と考えていた。
集合概念とその集合を構成する一単位とは定義として一致しないはずである。つまり命題1と2である。これが一致してしまうとなれば、そこで働いている思考様式はどういうものであり、どのような思考操作がそこで行われているかを考えたかったのである。
しかし、今はそのことは考えないでおこう。また、頭に余裕のある時に考えよう。
夜、帰宅すると、北京オリンピックの開会式をやっていた。母がテレビで見ていた。僕は夕食を摂りながら何気なく見ていた。音楽はクラシック音楽が用いられていた。エルガー、チャイコフスキー、ベートーベン、ヨハン・シュトラウスⅡ、ビゼー、ヴェルディ等々。ゲームの音楽よりかははるかにいい。
最後までは見なかったけれど、おそらく、東京ほど派手にはやらなかっただろうし、長々と続けなかっただろうと思う。質素で簡素な開会式だったのかもしれない。いずれにしても、東京は北京の引き立て役になったのではないかと思う。必ず東京と比べられるだろうと思う。
まあ、オリンピックはもうどうでもいい。20数年前から興味も関心もなくなっている。やるなら勝手にやってくれって感じだ。僕には僕で取り組んでいること、取り組みたいことがたくさんある。スポーツ観戦で時間を使うわけにはいかないのだ。
人生はあまりにも短い。いきなり、それも自分の意に反して、人生が中断してしまうこともありえる。短く、且つ、あまいにも非情である。今は生ある時間を有効に活用したいと思っている。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)