2月3日:とにかく生きていること

2月3日(水):とにかく生きていること

 

 緊急事態宣言下で飲食店が時短営業を強いられている中で議員さんたちが夜のお店で飲み歩いたという件で持ち切りだ。僕にとってはどうでもいいことだ。

 これに関してよく耳にするのが、口では禁止を謳っていて行動がそれに反するという類の批判だ。でも、この批判は正しくないかもしれない。僕の考えでは、その人たちは議員としての自分とそれ以外の時の自分とがあまりに解離しているだけなのかもしれない。要するに自己の一貫性とか連続性といったものが薄いのかもしれないということだ。

 仕事は仕事と割り切る場面はどの人にもあるかと思う。オンとオフを切り替えることをする人もあると思う。表の顔と裏の顔を使い分けるという人もあるだろうと思う。でも、これはそれらとは違った話なのだ。割り切ろうと切り替えようと、そこには一貫した自己があるものである。オンとオフで別人になるというわけではあるまい。解離しているということは、その両者がつながっていないということになるわけだ。

 議員さんの中にはそういう人もあるかもしれないと僕は思う次第である。なぜそう思うかと言うと、議員の世界ではそれが常識化しているかもしれないと思うからである。総理の発言で批判が飛び交っているけれど、あの発言が普通に通用している世界なのだ。自己が一貫していなくても通用する世界であるように僕には思えるわけだ。

 通常の世界、つまり一般の人が生きている社会では、自己が解離していると非常に生きにくくなるはずである。そういう人の中には治療を求める人ないしは治療の必要性が認められる人たちもある。それくらいしんどい生き方をしてしまうわけだ。

 今回、緊急事態宣言がなされた時、一か月で収束させるかのような発言を総理はしたわけだ。いざその期日が迫ると、次の一か月で抑えると言うわけだ。これはつまり、前回の発言と今回の発言とが解離しているわけである。もっと言い換えれば、前回発言した時の自分と今回発言した時の自分とがつながっていないわけだ。自己の中で内的な一貫性とか連結が途絶えているように僕には見えて仕方がないのだ。

 もう一つ言うと、今回、飲食店が良くないということでそこだけ時短営業を求め、そこだけ協力金を出すという方策を政府はとっているわけだけれど、これができるのも解離のなせるわざである。

 さて、政治家の話はどうでもいい。彼らは国のために政治をするのであって、国民のためにやっているのではないからだ。だから国民が全滅しても彼らには政治をやってもらいたいところである。

 僕は僕の生を生きる。

 

 12月から仕事が激減している。けっこう急激な減り方なのでまいっておる。しかしながら、今ジタバタしても早急に改善されるとも思わないので、春まで耐えようと思っている。気温が高くなればウイルスの活動性が低下するので感染の脅威が減少するだろう。そうなると人も外に出るようになるし、経済もそれなりに回っていくだろう。それを見込んでいる。

 時間ができた分、本を読む。それと身辺整理だ。この二つでけっこう時間を費やしている。却って忙しくなったような気もしている。でも、いい機会でもあるのでやっておこうと思っている。

 少しずつではあるけれど、僕の職場からも、僕の生活空間からも、不要なものが減って行っている。本当に必要なものだけを残しておこうと思う。

 でも、今晩は少し休憩を。ウイスキーの小瓶を帰宅時に買っておいて、家で映画を観ながら飲む。映画は『ナバロンの嵐』だ。この映画というかこのストーリーが好きだ。主人公たちは次から次へと困難に見舞われるのだけれど、その都度、活路を切り開いていって、誰からも表彰されることなく、ただ与えられた任務を遂行する。絶対にあきらめないし、絶対に敗北宣言をしない主人公たちがカッコいい。あのように生きることが僕には必要だなと、改めてそう感じた。

 

 さて、今日も一日を終えよう。どうにかこうにか今日も一日生きた。充実していたかどうかは別として、『マルテの手記』にあるように、とにかく生きていくということが何よりも大事だ。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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