2月28日(金):コロナ・ジェノサイド(4)~オリンピックの廃止へ
日本はコロナウイルスの感染者が、数字の上では、少ないとされているが、それは検査が行き届いていないからである。検査を拡充すれば感染者の数が増えることになる。それは当然である。検査の数が増えれば、感染者の発見数が増加するからである。
それでもいいから検査体制を拡充しなければならない。テレビの報道番組で繰り返しそのことは言われているが、僕も同感である。
政府はなぜ検査を増やさないのか。今日、少し小耳に挟んだところでは、オリンピックも関係しているらしい。感染者を大量に出したということは国のイメージが悪くなるということであるらしい。確かなことは分からないけど、あり得ることのように僕には思われた。
数字のまやかしは今の政府の得意分野である。細かなことには触れないけれど、経済成長であれ、経費であれ、他のどんな案件にもこの政府は数字のまやかしをやらかすのだ。
もし、政府が全力をつくして感染の拡大防止に努めた上で感染者数が少ないというのであれば、僕はそれでいいと思う。クリーンなイメージを作ろうとした政府の面目も立つというものである。
しかし、現状では、そのクリーンなイメージはまやかしである。国民を犠牲にしての、あるいは国民に危機を体験させての、イメージづくりなのだ。僕たちは、自分が賛成したわけでもないのに、そうしたイメージづくりのために我が身を犠牲にするのだ。
そもそも、その日本のイメージは僕たちが希望しているものではない。政府が一方的に決めつけて、押し付けようとしているイメージなのだ。少なくとも僕個人は日本にクリーンなイメージを持ってもらう必要はないと考えている。
それに、感染者の数がイメージにそう影響するとも思わない。むしろ、感染者の処置をきちんとすることの方がイメージは良くなるだろう。つまり、病気のない国に行くことよりも、病気になった時に処置してくれる国に行きたいと、外国の人ならそう考えるのではないだろうか。僕たちが外国に行く時も、そういう観点を持たないだろうか。
結局、僕たちはオリンピックのために犠牲になるのだ。痛みに耐えるのは、将来の日本のためではなく、目先のオリンピックのためなのだ。コロナに感染したのではないかと不安に怯えながらも、検査も受けられず、何も明確にされないまま、ただ不安を耐えるのもイベントのためなのだと思うと、生きていることすらがバカらしく思えてくる。
コロナウイルスは知らない間に感染するのだ。目に見えないだけに恐ろしいわけであり、不安を喚起するのだ。そして、感染しても潜伏期があり、自覚症状のないままそれを広めてしまうのだ。誰もが自覚のないまま被害者となり、同じく自覚のないまま加害者になるのだ。
僕は喫煙者だから、さらにこの矛盾を覚えるのだけれど、喫煙者はすでに隔離されたような存在である。副流煙を吸い込まないようにと、分煙され、さらには喫煙場を撤去していっている。飲食店でも喫煙が不可になる。政府は健康増進のために喫煙を排除してきたのだ。飲食店も国からの命令でそうせざるを得なくなっているのだ。そこまでしてタバコの煙を非喫煙者が吸い込まないように配慮しているわけだ。喫煙はコロナよりも害が大きいのかねと、僕は言いたくなる。喫煙者にそれだけのことをしているのなら、コロナウイルスに対してもそれに匹敵することをやればいいのだ。
話が散漫になっていく。思いつくまま綴っていくと、連想が広がっていく。ほどほどにしておこう。
結局、政府の対応の背後にオリンピックがあるということらしい。確かに真偽のほどは定かではないけど、僕は十分あり得ることだと思っている。国民よりも、人命よりも、イベントが大事なのだ、いや、金が大事なのだ。すでにオリンピックで莫大な予算を使っているからだ。コロナよりも優先しなければならないのだろう。
この国に明日はない。オリンピックこそ中止しなければならない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)