2月26日:女子大生集団の会話

2月26日(日)女子大生集団の会話

 

 今日は時間があるので、それに眠れそうにもないので、もう一本書いておこう。

 十三駅で途中下車した時の話を書いておくのを忘れた。それを書いておこう。

 僕が電車に乗ると、7人くらいの女子大生が近くに座っていた。大学生というのは、彼女たちの会話からそれが分かる。実際、年齢もみんな19~20くらいではなかろうか。

 僕は人の話を盗み聞きするという困った趣味があって、この時も聴くともなしに彼女たちの話を聞いていたのだ。

 そもそも彼女たちの話題というのが、聴いていて「おっ!」と思わせるものだったのだ。まず、児童虐待のことが話題になり、それから餓死する人のこと、さらに自殺のことまで話すのである。なかなか問題意識のある女子大生たちかと思い、興味を抱いたのである。しかし、聴いていると、甚だ腹立たしいのである。それで聞くに耐えなくて、十三駅で途中下車したのである。

 彼女たちの話は、大概、こんな感じである。一人が、最近は子供を虐待して殺してしまう母親が増えているらしいと問題提起すると、他の人たちの「えー、信じられない」で締めくくられるのである。餓死した人のことになると、「臓器売れよ」で終わる。自殺者に関しては、「死ぬのは勝手やし、さっさと死ねよ」で終わる。あまりの低能さに、僕は腹立たしくなったのだ。

 彼女たちが母親になったら、7人中何人かは我が子を虐待すると僕は思うね。19や20の若い人には理解できなくて当然かもしれないけれど、人間が餓死するまで追い込まれる姿を彼女たちは想像することもできないのだろう。自殺したくなるというような経験もこれまでされたことがないのだろうと思う。

 僕が彼女たちの年齢の頃は、僕の死はもっと身近な問題だった。彼女たちが、ある意味では、羨ましく思えるよ。

 何が彼女たちに欠けているか、これを読んでくれている人には見えるでしょうか。それは共感能力なのだ。自分がその人たちの立場だったらという観点がまるでないのだ。虐待する母親も餓死者も自殺者も、彼女たちには他人事なのだ、それは自分とは無関係で、彼らに対して無関心であることの表れである。そして他者に対して他人事の立場を頑ななまでに固持できるとするならば、それは彼女たちに愛情能力の障害があるということである。

 10年後くらいに、彼女たちの何人かは、僕のようなカウンセラーの門を叩くようになるかもしれない。子供を殴ってしまうんですとか、生活苦で食べていけないとか、死にたいというような訴えをしているかもしれない。こういう時、人は決まってこう言うのである。「まさか自分がそんな状態になるなんて」と。

 まあ、それはそれとして、彼女たちは10年前にそれらについて考える機会があったのに、みすみすその機会を逸しているようなものだ。もっとも、人間はこういうことをしてしまうものである。どうしてその時に、自分自身の問題として考えてみなかったのだろうと、悔やんでもその時には遅いのである。

 人間は自分が切羽詰って、その時に初めて、一からそういうことに取り組んでしまうものだと思う。それ以前にそういうことに取り組む機会がいくらでもあったのに、そういうことはすっかり忘れてしまっているものだと思う。

 人間の世界において生じていることは、どれ一つをとっても自分とは無関係ではないのだ。それは歴史上の出来事においても同じである。ユング心理学は僕にそれを教えてくれたと思っている。だから、福島に住む人たちの問題は、僕の問題でもある。沖縄の基地問題は沖縄の人たちだけでなく、僕の苦悩でもある。第二次大戦のヒトラーとナチでさえ、今の僕とまったく無関係とは言えない。自己を拡張するとはそういうことではないのだろうか。彼女たちは共感能力に欠くうえに、自己をそうして拡張していくこともできない人たちなのだろうなと思う。知識や偏差値は僕よりあるかもしれないけれど。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

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