2月20日:本心か逃避か

2月20日(木):本心か逃避か

 

 今日のクライアントが言っていたことで印象に残ることがあった。簡潔にその人の状況を述べると、その人は大学を辞め、小説家になりたいということであった。それはそれで結構なんだけれど、この人は自分が小説に熱中するのは現実逃避ではないかと心配していた。

 なるほど、現在の状況、大学における状況から逃避するために小説に逃げているのではないかというわけである。僕にはいささか図式的な考え方であるように思えるのだけれど、当人はそれを真剣に心配していた。

 まあ、小説家になることであれ、他のことであれ、現実逃避の目的で何かを目指すということはあり得るだろう。一方で、それになることを真剣に望んでいる場合だってあるだろう。

 ここからはその人のシチュエーションは拝借するけれど、その人個人からは離れることにする。取り上げたいのは、ある行為が逃避行為なのか本当に望んでやっていることなのか、どこでその判断がつけられるかということである。

 

 これは簡単に目安がつく。もし、それが逃避行動であるなら、彼は小説を書かないだろう。逃避が本来の目的になるわけであり、小説を完成させることは二の次になるわけだから、逃避行動であれば小説を完成させるどころか、書くことさえしないだろう。書くことを引き延ばすか、あれやこれやの理由をつけて一行も書けないなどと言うだろうと思う。

 しかし、この人は現実に小説を書いて、完成させているらしい。長編か短編かは知らないけれど、現実に書いて完成させ、サイトに投稿したり出版社に送ったりしているそうである。現実の活動も伴っているのである。

 従って、僕はその人が小説を書くことは、彼の本望であって、逃避ではないと思うのである。もっとも、僕がそう思ったからと言って彼がそれを受け入れるかどうかは別である。

 

 別の観点もある。例えば躁的な人の場合、あれになりたい、これになりたいと、目標が転々とし、尚且つ、深く考えもせず行動したりすることがある。

 もし、この人が躁的な状態になっていて(彼の状態からするとそれは考えられないのだけれど)、それで小説家になりたいということであれば、これはアイデンティティの拡散である。自己が凝集されていない、あるいは解体したような状態にあるわけだ。

 この場合、彼は小説を矢継ぎ早に完成させるだろう。寝食を忘れて執筆するだろう。しかし、おそらく内容は支離滅裂で、投稿でもしようものなら一発で結果が分かるというものだ。彼の小説はそういう評価を受けているわけでもなさそうなので、この可能性も除外できる。

 

 次に、何事においてもそうであると僕は思うのだけれど、何かを始める時、最初の一歩を踏み出す時にはとかく勇気が必要で、気後れしたり、恐れや不安が生まれたりすることもあるだろう。

 この人にもそれが見られる。小説家になれるだろうか、あるいは失敗したらどうしようかといった不安もあるようである。こうした不安はどの人も持ち得るものであると思う。言い換えると、何も特別な不安ではないということである。

 ただ、この不安が「正常不安」か「神経症的不安」かという区別は存在するかと思う。どこでその区別がつけられるかを考えよう。

 僕が一つ拠り所にしているのは現実の限定性ということだ。現実的不安であれば、不安がある程度現実的であり、さらにその範囲が限定されるだろうと思う。つまり、漠然さの度合いが低いわけである。

 小説家として成功するかという不安は漠然さの度合いが高いのである。成功するという観念が多義的であるために、一層、漠然さが増すのである。

 出版社に投稿した作品が採用されるかという不安は、先のものより、漠然さの度合いが低く、より現実的である、不安の範囲が限定されていることが分かる。ここでの不安は採用されるか否かという形で、先のものに比べて一義的である。

 後者の方は、さらに、採用されれば次に何をしようとか、採用されなかった場合、どこを改善しようとか、そうした具体策を考えることもできる。前者の方は、何をどうすることもできないのである。つまり、漠然としているほど不安の対処ができないわけである。だから不安は現実的なものに、さらには限定していくことが肝心であるわけだ。

 しかし、今言ったことに関して、さらに質問が来そうだ。これ以上深入りすると限りなく文章を綴らなければならなくなる。不安の漠然さの度合いは何で決まるのかといった疑問にここでは答えるだけの分量がない。この漠然さは自己の漠然さと関連するとだけ述べておこう。それでこの話はここまでにしておこう。

 

 この話、どこまでも展開していきそうだ。そろそろ書くのに疲れてきた。この程度の分量で書くのが疲れたなんて言っている僕はとても小説家にはなれないな。

 それはともかくとして、彼の行為は逃避とは言えない部分が多いのだけれど、彼の不安はいささか神経症的である。この不安によって彼は自分の行為を逃避と判断するのだと思う。つまり、神経症的な漠然とした不安のヴェールを通して自分の行為を見るので、すべてが不安の色彩を帯び、自分の行動に偏った意味づけをするわけである。

 本当は、単に自分の進路を変更しただけの話なのだ。人生の途上で目指すものが変わったというだけのことなのである。彼はきっとそうは思わないだろうと思う。まったく別のところに自ら問題を生み出しているからである。

 ここから先はこの人の個人的領域に踏み込むことになるので、この話はここで打ち切ろう。

 

 やれやれ、軽い気持ちで綴り始めたのに、熱中しすぎたようだ。これは僕の逆転移によるものである

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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